弘前藩領蟹田湊は、 幕末期で戸数122戸、
船問屋2軒とそれほど大きな港町ではありませんが、
外ヶ浜にはヒバの美林が広がっており、
藩はここから取れる木材を財源としていました。
蟹田湊はその木材積み出し港となっており、
この小さな港町に町奉行が置かれ、
木材方を兼務させています。
「観瀾山」碑。
蟹田川を挟んだ中師地区の観瀾山は、
陸奥湾を見下ろす眺望に優れた小山で、
大正12年にここを訪れた久邇宮邦久王が、
その景観に感動して観瀾山と名付けたという。
それ以前の名称が良くわかりませんが、
名も付いていない小山だったのか?
かつてアイヌの館があったという説もあり、
名が無いってのも変ではあります。
「太宰治文学碑」。
太宰治は「津輕」の執筆中に、
友人N君達と観瀾山に登っています。
「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった」
と刻まれ、太宰の「正義と微笑」の中で、
主人公の俳優が墓に刻んで欲しいと思っていた文。
これを太宰に置き換えて選ばれたようです。
「蟹田台場跡」碑。
ロシア船が津軽半島沖に出没を繰り返していた為、
防備の為に藩は領内10ヶ所に台場を設置しました。
この蟹田台場もその一つ。
文化8年(1811)設置という非常に早い時期の台場で、
後の天保14年には、町奉行所に大筒方3名、
同心2名が増員されており、幕末に至る前から弘前藩が、
海防を重視していた事がわかります。
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