高杉晋作と西郷隆盛は面識が無いとされ、
yafoo!知恵袋等のネットの書き込みでも、
よくそういう答えが見受けられます。
大概が会う機会があったけれども、
晋作が会わなかったというもので、
晋作は他藩の人間を信用せず、
特に西郷が嫌いだったとか・・。
でもこれは司馬遼太郎の受け売りで、
司馬の小説「世に棲む日日」において、
計画していた横浜外国公使の襲撃を、
久坂玄瑞が武市半平太に漏らし、
それが回り巡って藩主にバレたことで、
他藩の人間は信用ならんということになる。
それで「世に棲む日日」の晋作は、
西郷や坂本龍馬にも会おうとしない。
司馬の小説は人物が生き生きとしており、
大変に面白いものです。
これは設定がしっかりしているからで、
他藩嫌いの高杉晋作という設定を作り、
何故嫌いなのかまできっちりと作りこむ。
真に素晴らしい小説家なのですが、
それによって司馬の描く歴史人物像が、
あたかも史実のように語られてしまう。
司馬の「十一番目の志士」という作品には、
架空の天童晋助という刺客が登場しますが、
これを実在人物を勘違いした人も多く、
中には歴史研究家もいたらしい。
晋作が他藩嫌いだったとするのは、
そもそもが司馬による創作で、
高杉晋作を魅力的にするための、
司馬特有の手法だったのです。
現に晋作は中岡晋太郎と親交が厚く、
同じく土佐の田中光顕を弟子にしています。
福岡の月形潜蔵らとも親交していますし、
九州諸藩連合を模索して行動していました。
他藩を信用しなければ出来ない所業です。
もうひとつ面識が無かったとする出所が、
末松謙澄著の「防長回天史」で、
「西郷隆盛と高杉晋作は終生面識なし」
と記されている為。
伊藤博文や税所篤だけではなく、
井上馨や西郷従道にも聞き取りしており、
これが信憑性が高いとされました。
しかし二人が会ったという文献もあります。
品川弥二郎の伝記「品川子爵伝」では、
元治元年11月に平尾山荘で会ったとされ、
偶然にも西郷が野村望東尼を訪ね、
匿われていた晋作と国事を語ったという。
但しこの時期の西郷は、
広島~岩国間を往復しており、
福岡に入った形跡はありません。
もうひとつ。
元治元年12月11(12)日。
下関の対帆楼(大阪屋)で会ったというもの。
これは久留米藩士の手記「水野正名翁伝」、
三吉周亮の「三吉周亮履歴并日記中摘要」、
他にも多数の資料に見られます。
西郷は和睦交渉で小倉から下関に渡り、
長州藩との対帆楼会談に臨みます。
このお膳立ては福岡藩月形洗蔵、早川勇、
久留米藩水野正名、
土佐浪士中岡慎太郎、土方久元等でした。
西郷は秋月藩士の肩書きで下関に渡り、
側近の吉井幸輔、税所笑蔵を連れ、
密かに下関に上陸したようです。
待っていたのは晋作以下10数名の隊士。
この隊士らがどの隊なのかは不明ですが、
遊撃隊の幹部だったのではないでしょうか?
西郷が下関に来たということは、
東久世通禧や三条西季知も証言しています。
そのことについては間違いないでしょう。
では西郷が何故、下関に渡ったのか?
長州征伐関連の件であれば、
通常通り仲介役の岩国藩で良いでしょう。
交渉相手はあくまで長州藩であり、
支藩の長府藩ではありません。
普通に考えれば下関に用があるとすれば、
それは長州藩の政府ではないはずで、
当時勢力として認知されていた奇兵隊など、
長州諸隊との交渉が目的だと思われます。
この会談後の12月15日。
晋作は功山寺で挙兵しています。
諸隊が一丸となって武力を行使すれば、
現政権の転覆も可能だと考えられていましたが、
奇兵隊らがこの挙兵を渋ったのは、
本藩に弓引くという事もあったでしょうが、
広島の征長軍が動くのを恐れたからでは?
しかし征長軍が動がないとわかっていたら?
後の小倉戦争での采配から考えても、
晋作は退路まで考えて戦略を練るタイプ。
挙兵を一か八かで行ったとは考えにくい。
仮に会談が実現していたとすれば、
西郷に現政権の打倒が完了するまで、
征長軍を動かさぬように依頼したとすれば?
そう考えれば征長軍の動向も納得できる。
内訌戦以降のトントン拍子を考えれば、
対帆楼会談である程度の方向が、
決められていたとすれば、
スムーズな流れとして見る事が出来ます。
ではなぜこの会談の資料が乏しいのか?
それは当時の長州の状況から考えて、
薩摩と交渉していたとなるとマズイ。
晋作他十数名しか知らぬ事だったから。
お互いが探りあいをしていた段階なので、
晋作が、現政権を打倒する。
西郷が、征長軍を解兵する。
お互いがこれを実行して信用を得られた為、
薩長同盟の布石になったのではないのか?
明治にはいってからの防長回天史で、
伊藤博文、税所篤、井上馨、西郷従道が、
面識が無かったと言っているのは何故か。
井上馨、西郷従道に関しては、
その場に居ないので知らないだけですが、
伊藤博文、税所篤はその場にいた筈です。
税所の場合は西郷が征長を止めたとなると、
大西郷の名に傷が付くからか?
旧幕臣の恨みを買う可能性もあるからか?
伊藤の場合は共に決起した功山寺挙兵が、
決死の覚悟で望んだ方が都合が良いからか?
伊藤は功山寺挙兵に初めから参加しており、
これを誇りを持っていますので、
自らの功績を守る為かもしれません。
真相は闇の中ですが、
回顧録よりも日記や手記の方が正確ですし、
生きている人間がする証言は、
自分の都合のいいように湾曲させれますで、
秘密にしなければならない理由が、
別にあるのかもしれませんね。
もちろんこれは完全に推測ですが、
僕は2人が会ってて欲しいと思っています。
■関連記事■
・晋作と西郷は会っていたのか?2
晋作と西郷の会談について追記。
・下関市赤間町 末廣稲荷神社
稲荷町にあった末廣稲荷神社。
・「世に棲む日日(四)」司馬遼太郎
晋作が他藩嫌いという説はこの小説から。