高杉晋作の東帆禄④

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つづき。

5月4日。
朝早く出航。
多度津港を去り一里行って潮を待つ。
潮が来たので碇を挙げたが風は無い。
ようやく讃州の②大槌島に到着し碇泊する。
この日は曇天で小雨。

5月5日から7日。
③播州小豆島沖で漂泊。
3日間風は無く船は潮流に従う。
順潮ならば船は進み逆潮ならば船は後退。
晴天。
碇を下ろしたりあるいは帆を上げたり、
7日の昼に④淡路島沖に至り、
碇を下ろして潮を待つ。
小舟で淡路島におりる。


5月4日からの行程。
※その後に③坂井(堺)に入港しますが、
 日記に8日~21日に記載がなく、

 何日に着いたのか不明。

5月22日。
早朝①坂井(堺)湊を出発。
船が争うように出航する。
目の前の戦場のような光景が愉快。
この日風は弱く逆潮。
ただし波は高く船は揺れ2~3里の間、
揺れるばかりで進まず。
黄昏時に陸地から風が吹き、
舟は少し進んだが②大島に至る頃には、
夜が明けていた。
※風待ちの船が一斉に出航する景色なんて、
 今では見れないでしょうね。

5月23日。
朝晴天、西風が吹き紀州の大島沖を進む。
昼頃、海上から紀州熊野山名知瀑を望む。
真に絶景なり。
午後夜に入り西風が益々強くなり、
船は進む。
紀州地方は深く高い山や森があり、
船子がいうには志摩沖を進んでいるという。
これより遠州大洋。この日百里進んだ。
※名知瀑は那智の滝の事。
 海からも見えるらしいですね。



5月22日から5月23日の行程。

東帆禄」はこれで終了。
肝心の大洋の航海は記載されていません。
それほどに大変な航海だったのでしょうか?
6月4日に江戸からに書状を出しており、
それ以前に江戸に着いた事がわかります。
「東帆禄」に記載された内容では、
それほど大変な様子は見られなかったので、
後の航海が余程大変だったと想像できます。
5月23日から遅くとも6月3日の到着で、
最長で9日の航海ですが、
今までの行程を考えると良いペースなので、
大荒れだが船は進んだ感じでしょうか?
時期的に台風に遭遇した可能性もあります。

晋作はこの航海を終えて、
自分は航海士には向いていないと、
投げ出してしまいます。
僕個人の推測なのですが、
大変だから投げ出したのではなく、
船の中の狭い空間が嫌とか、
風待ち、潮待ちとのんびりしたのが嫌とか、
そういう理由なのではないでしょうか?

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 この東帆禄の後の遊学日記。

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