椎谷藩は堀直政の四男堀直之を藩祖とし、
次代の堀直景が1万石に加増され、
諸候に列した事に始まります。
直景は苅谷に陣屋を置いて苅谷藩を立藩。
後に子の堀直良が八幡に藩庁を移した後、
更に次代堀直宥が越後国刈羽郡に転封され、
椎谷に陣屋を置いて椎谷藩となりました。
「椎谷宿(現地東屋の古地図より)」。
陣屋の場所は北国街道の椎谷宿沿い。
椎谷藩堀家は定府大名であった為、
御殿のない簡素なものだったようです。
「陣屋入口跡」。
国道沿いの東屋の辺りから奥に入ると、
陣屋入口跡が現れます。
小高い丘陵の上に設置されており、
陣屋から宿場が見渡せたと思われます。
「椎谷陣屋跡」。
陣屋入口跡を登ると平地となっています。
八重桜が綺麗に花を咲かせていました。
「砲術稽古場跡」。
陣屋内に設けられた砲術稽古場。
屋敷の隣なのでうるさかったでしょうね。
「馬場跡」。
草むらで何が何だかわかりませんが、
それほど広くは無い様子。
「藩邸跡(稲荷神社)」。
屋敷跡には稲荷神社が建てられています。
屋敷は役人が政務が行う程度だったので、
ちょっとした武家屋敷程度のものでした。
訪問時は八重桜が満開でした。
一番良い時期だったかもしれません。
椎谷藩での特筆する事件としては、
家老による継嗣暗殺未遂事件があります。
口伝で伝えられた話によると、
8代堀著朝の時代に藩政が乱れ、
これを見かねた幕府が著朝を廃し、
西尾藩より松平乗厚を堀家の養子とし、
堀直起として家督を継がせましたが、
それ以後も他藩からの養子が続きました。
11代堀直哉は唐津藩からの養子ですが、
直哉は堀家の血筋に戻すべきと考え、
村松藩堀宗家より養子を貰いたいと、
家老の斎藤八百四郎に相談。
齋藤はこの考えに賛同したようで、
既に直哉には之敏という継嗣がいる為、
吉田忠左衛門ら之敏の暗殺を企てます。
しかしこれが事前に露呈してしまい、
斎藤、吉田一味は捕縛されました。
残念ながらわかっている事はこれだけで、
之敏は何故、堀家の血筋を重視したのか?
之敏は暗殺の件は知っていたのか?
暗殺計画は何故露見してしまったのか?
今となっては想像の域を出ません。
戊辰戦争が起こると椎谷陣屋では、
在郷藩士らが独断で北陸道鎮撫総督に出頭。
新政府に恭順の意を伝えています。
13代堀之美も椎谷に向かいますが、
その途中の岩鼻で東山道鎮撫総督に遭遇。
東山道鎮撫総督は恭順の証を要求し、
之美は金1000両と米700俵を献上しました。
※椎谷藩は北陸の藩ですので、
実際は東山道鎮撫総督は管轄外。
之美が椎谷陣屋に到着した後、
北陸道鎮撫総督から出頭命令が下り、
急遽上洛して勤王誓書を提出しています。
水戸藩諸生党市川三左衛門ら500余名は、
水戸を脱出して同盟軍に合流しており、
鯨波戦争に敗れた後に椎谷陣屋を攻撃。
椎谷陣屋は水戸勢に占領されました。
椎谷藩は新政府軍に援軍を要請し、
これに応じた新政府軍は陣屋は砲撃。
たまらず水戸勢は退却していますが、
新政府軍が引き上げると再び侵攻し、
陣屋や宿場を放火した為、
その殆どを焼失させました。
甚大な被害を受けた椎谷藩は、
戦後に賞典金2000両を拝領。
しかしこの程度では復興を果たせず、
新政府に2万両の拝借を願いましたが、
新政府はこれを却下しています。
【椎谷藩】
藩庁:椎谷陣屋
藩主家:直政流堀家
分類:1万石、譜代大名(定府)
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椎谷藩が支配する北陸街道の宿場町。
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直政系堀宗家の居城跡。