新潟県五泉市 村松城跡

村松城は江戸期に築城された城で、
上杉家が越後を支配していた時代に、
周辺を支配する館があったとされますが、
正確な事はわかっていません。

寛永16年。
村上藩主堀直竒の次男堀直時が3万石を分知され、
その後、2代藩主の堀直吉によって陣屋が築かれ、
9代藩主堀直央の時代に城主格となり、
陣屋は城に改修されました。

村松城跡は「村松城跡公園」として整備されています。

蒲原鉄道車両(モハ11)」。
村松城跡公園のシンボル。
廃止された蒲原鉄道線の車両が保存されています。
城跡に蒸気機関車が保存されている例はよくありますが、
こういうのはあまり見かけられませんね。


村松城は戊辰戦争で焼失し、
その後、村松県庁舎が置かれていましたが、
新潟県に吸収合併されると、
敷地は民間に払い下げられてしまいますが、
後に村松町が買い戻して公園化されました。
現在は土塀が整備され、虎口が再現されています。


公園中央部には石垣も見られますが、
当時のものではない気がします。
村松城には三重櫓も建てられていたようですので、
このような石垣があったかもしれません。


五泉市村松郷土資料館」。
村松藩や堀家ゆかりの資料、村松の歴史資料を展示。
また、蒲原鉄道の資料等も展示されています。


村松藩の紋入り手洗鉢」。
村松藩主が上野寛永寺に寄進したもので、
平成11年にここに移設したもの。
村松城跡には遺構が少ないので、
こういうのを返してもらうのは嬉しいでしょうね。


水堀跡」。
幅は広いのですが、深さは当時から浅かったようです。
平和な時代の城ですので、
カタチだけの堀を造ったのでしょうか?
村松城は城というよりも陣屋に近い感じでしたが、
水堀や土塀、三層櫓などが揃っていますので、
一応は城の部類に入るようです。

村松藩領は山間部が多く新田開発が伸び悩み、
恒久的な財政赤字となっています。
歴代藩主も状況を打開しようと手を尽くしますが、
財政が好転することはありませんでした。
9代藩主直央に時代に村松藩は城主格となった為、
陣屋を城に改修して財政難に拍車をかけますが、
直央は政務から門閥を遠ざけて、才ある藩士を登用。
次男堀直休に家督を譲って、自らは財政再建に力を注ぎ、
倹約令及び織物陶器などの生産を奨励し、
好転とまではいきませんが、
ある程度の成果を出しています。

しかし藩主直休は万延元年7月に死去し、
財政再建を主導した直央も9月に死去。
村松藩の財政改革は中途で頓挫してしまいました。
一族より末期養子として18歳の堀直賀が跡を継ぎ、
門閥家老堀右衛門三郎が直央の側近を排除します。

門閥から遠ざけられて失脚した直央の側近達は、
時事を語り合い次第に勤皇色を強め、
正義党と称して勤皇論や軍政改革案を上申しました。
堀右衛門三郎はこれを危険視して正義党を弾圧。
4名が切腹、2名が斬首されています。
※村松七士事件。

残った正義党は慈光寺に立て籠もって勤皇を貫き、
村松藩は奥羽越列藩同盟軍として北越戦争に参加。
同盟軍が陣を置いた加茂における軍議では、
村松藩の代表として、家老の森重内近藤貢
清水軍次田中勘解由が出席しますが、
その席上、会津藩米沢藩は村松藩を疑い、
いっそ村松城を奪ってしまおうという意見も出ます。
これに田中は激怒して会議中に刀で喉を突き、
村松藩の潔白を証明しました。
田中は手当がされて一命は取り留めますが、
この田中の行為に対して、
近藤は勤皇の志を告白して自刃しており、
村上藩の揺れる様子が伺えます。

新政府軍が村松城に迫ると、
門閥家老堀右衛門三郎は藩主を連れて米沢へ退却。
正義党は直央の末子堀直弘を新藩主に擁立し、
新政府に降伏しました。

戦後、堀右衛門三郎は斬首。
直賀は隠居を命じられています。

【村松藩】
藩庁:村松城
藩主家:直寄流堀家
分類:3万石、外様大名

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