相良家は鎌倉時代よりの人吉の地頭で、
室町時代を経て戦国大名となり、
島津家に翻弄されながらも領地を守り、
豊臣政権、徳川政権でも所領を安堵されて、
廃藩置県まで領人吉を治めていました。
その相良家の墓所は願成寺にあります。
「願成寺」。
初代相良長頼の創建で、
開山は遠江常福寺から招いた弘秀上人。
後陽成天皇勅願所である由緒ある寺ですが、
西南戦争で諸堂伽藍は悉く焼失してしまい、
現在の本堂はその後に再建されたもの。
「相良家墓所」。
江戸中期に一族の墓を集合させたもので、
250基の五輪塔が建ち並び、
大名墓地としては最大級のものという。
「相良三郎藤原長頼之墓」。
鳥居の先にある初代当主相良長頼の墓。
ここには霊廟金堂が建てられていましたが、
西南戦争によって焼失してしまい、
明治18年に現在の墓石に再建されました。
長頼の墓より奥の石段を進むと、
相良家の墓所が現れます。
「第二墓所」。
20~24代及び26代当主の墓所。
20代当主相良長毎(頼房)は初代藩主で、
関ヶ原の戦いで大垣城に籠城しましたが、
秋月種長、高橋元種と共に東軍に内通し、
熊谷直盛ら西軍を謀殺して降伏。
これによって所領は安堵されています。
「第一墓所」。
2~19代までの当主の墓所。
戦国時代までの当主の五輪塔が並びます。
「第五墓所」。
夫人や一族、縁者などの墓所。
後ろ側の草生した墓石は、
石田三成の供養塔とのこと。
「石田三成の供養塔」。
初代藩主長毎は西軍を裏切ることで、
人吉の所領を安堵されましたが、
これを悔いたのか三成の供養塔を建立。
他にも5基の供養塔が並んでおり、
謀殺された熊谷直盛、熊谷庄兵衛、
垣見一直、木村勝正、木村伝蔵も、
供養塔がありようです。
「相良長毎の宝篋印塔」。
墓域の一番端にある長毎の宝篋印塔。
※他の二つは夫人と母のもの。
第ニ墓所まで戻り反対側の墓域へ。
「第三墓所」。
25代および27~35代、
37代当主の墓所。
江戸時代後半の藩主らの墓があります。
「賢隆院殿故志州太守天界當真大居士」。
14代藩主(34代当主)相良長福の墓。
父相良頼之の隠居により家督を継ぎ、
先々代より続く財政改革を受け継ぎますが、
椎茸栽培をめぐる打ちこわしが発生。
※特権制度を設けた事による領民の反発。
これに派閥争いが加わって改革は頓挫し、
天災も重なって藩財政は好転していません。
安政2年に死去。
「正五位相良頼基之墓」。
15代藩主(35代当主)相良頼基の墓。
長福の弟で長福の長男が幼少であった為、
養嫡子となって長福の死去後に家督を相続。
軍制改革でオランダ式を推す佐幕派と、
山鹿流を推す尊攘派が対立しますが、
頼基によりオランダ式軍制に決定されます。
しかし砲術家松本了一郎の謀反の噂により、
松本は上意討ちされ佐幕派は瓦解。
※丑歳騒動。
結局は薩摩藩より英国式が持ち込まれ、
オランダ式も山鹿流も廃されました。
戊辰戦争では会津に藩兵を派遣し、
戦後に賞典金2000両を拝領。
明治18年に死去しました。
「第四墓所」
江戸時代後半の藩主夫人達の墓。
桜井、木下、秋月、亀井、松平など、
当たり前ですが他の大名家の出身です。
「第六墓所及び願成寺墓所」。
相良家親族と願成寺住職の墓所。
初代藩主長毎の宝篋印塔と、
明治以降の当主以外は全て五輪塔。
これほどの墓碑の数がある大名墓所は、
日本中でも皆無でしょう。
鎌倉時代からの領主なだけありますね。
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