東禅寺は盛岡藩南部家の墓所のひとつ。
南部家27代にして初代盛岡藩主南部利直の墓があり、
その他4人の藩主の墓所でもあります。
「東禅寺」。
山号は大宝山。
無盡妙什和尚開山の寺で13代南部守行が戦死した際、
妙什和尚が焼香師となって南部家との縁が深まり、
南部家が盛岡に居城を移すに従って現在地に移転。
利直の焼香師も三世大英和尚が勤めています。
「本堂」。
東禅寺は遠野市の附馬牛で開山しました。
本尊の釈迦三尊は本願寺顕如の妻如春尼の寄進。
本堂の脇から裏手の山へ。
「捐舘 何宗院殿四品前信州太守月渓晴公大居士」。
盛岡藩初代藩主(南部家27代)南部利直の墓。
父南部信直と共に小田原攻めに参陣。
前田利家を烏帽子親として元服し、
利家から一字を授かっています。
豊臣秀吉の死後は徳川家康と通じ、
慶長出羽合戦では最上義光の後援として参戦しました。
盛岡城下を整備して藩の基礎を築き、
幕府との関係強化に努めています。
利直の墓よりさらに上へ登る。
「正四位南部利義墓」。
盛岡藩13代藩主(南部家39代)南部利義の墓。
隠居させられた父南部利済に代わり藩主となりますが、
復権を謀る父の圧力により僅か1年で隠居しています。
隠居後は麻布の下屋敷に移って道楽を楽しみました。
明治21年に死去。
「捐舘 養徳院殿四品前大官令義山宗仁大居士 神儀」。
盛岡藩11代藩主(南部家37代)南部利用の墓。
この利用という人物は公式には一人ですが、
実際には2人存在します。
10代藩主南部利敬の養嫡子となった南部吉次郎は、
利敬の死去によって家督を継ぎますが、
木登りで遊んでいた際に転落して重体となり、
そのまま死去してしまいました。
※当時15歳。藩政は盛岡新田藩主南部信鄰が代行。
将軍御目見前に死去してしまった為、
年齢の近い従弟の南部善太郎を替え玉に仕立て、
11代藩主南部利用として将軍徳川家斉に御目見させます。
このすり替わった利用も僅か3年で病死しており、
8代藩主南部利雄の孫南部利済が12代を継ぎました。
この墓はすり替わった方の利用の墓。
さらに上へ。
南部と刻まれた多くの墓石群が至る所にあり、
南部諸家の墓所でもあったようです。
また、巨大な「大姉」と刻まれた墓石も点在。
藩主正室か生母のものと思われます。
「霊巌院殿・・・義方大居士」。
↑読めませんでした。
たぶん5代藩主(南部家31代)南部信恩の墓。
9代藩主(35代当主)南部利正の墓もあるはずですが、
探しても見つかりませんでした。
残念ですが幕末の藩主ではないので諦めて終了。
お隣の聖寿寺の南部家墓所へ向かいます。
■関連記事■
・岩手県盛岡市 盛岡城跡
盛岡藩南部宗家の居城跡。
・青森県八戸市 南宗寺墓地(八戸南部家墓所)
八戸南部家の歴代墓所。