岩手県盛岡市 聖寿寺②/盛岡藩南部家墓所

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南部家の墓所へ。

長い石段を登った先が南部家墓所。
この上に13人の当主(9人の藩主)の墓と、
南部家一族の墓があります。


掲舘 即性院殿前城州大守
 峰宗玄大居士神義(中)」、
指舘 霊徳院殿前光禄少郷
 雄山宗英大居土神義
(右)」、
指舘 養源院殿四品前太官令
 機翁宗鑑大居土神義(左)」。
2代藩主南部重直、6代藩主南部利幹
8代藩主南部利雄の墓。
石段頂上手前を右に曲がった場所。
中央は南部重直で2代藩主(28代当主)。
彼の時代に盛岡城が完成。
盛岡藩の基礎が出来上がりました。
右側は南部利幹で6代藩主(32代代当主)。
盛岡藩の財政悪化時期の藩主で、
人員削減などの倹約政策を敷いています。
左側は南部利雄で8代藩主(34代代当主)。
藩政を家老任せにしていたようで、
何を言っても[そうしろ]と答えた為、
[惣四郎殿]と陰口されたという。


大減原院殿四品前太官令
 雲山宗祥大居士(手前)」、
掲舘 霊承院殿従四位下前信州大守
 左近衛権少将顕道宗祇大居士神儀
(奥)」。
3代藩主南部重信、12代藩主南部利済の墓。
石段を登り切った先の墓域にあります。
手前が3代藩主(29代当主)南部重信で、
仁政を施した名君だったようで、
庶民から花輪殿様と慕われたという。
奥側は12代藩主(28代当主)南部利済で、
三閉伊一揆を誘発させて隠居しますが、
跡を継いだ南部利義を隠居に追い込み、
実弟南部利剛を藩主として実権を握ります。
しかし2度目の三閉伊一揆が起きると、
幕府が介入する事となってしまい、
この責を問われて蟄居させられました。
4代藩主(30代当主)南部行信の墓は、
写真の左側にあったのですが、
写真に納まっていなかったようです。


謂舘 天量院殿四品前大官令
 宣山宗明大居土神義」。
7代藩主(33代当主)南部利視の墓。
先の墓域より右手に一段登った場所で、
遊狩好きの為に領内をよく巡視し、
領内の風俗や民情を理解していたという。
髪が薄いのを気にしていたようで、
幕府に総髪の許可を得ていたという。

さらに一段登って墓所の最長部へ。

指館 神鼎院殿従四位下侍従前大官令
 龍岳宗文大居士神義
」。
10代藩主(36代当主)南部利敬の墓。
彼の時代に盛岡藩は20万石に加増されます。
門閥よりも能力ある役人を多く登用し、
優れた藩政で旗本南部家に内部分地しており、
新田藩(七戸藩)も立藩させました。


正三位南部利剛墓」。
14代藩主(40代当主)南部利剛の墓。
12代藩主利済の傀儡でしたが、
幕府の命で利済が蟄居処分となると、
楢山佐渡東政図を登用し藩政改革を推進。
両者の対立で方針はニ転三転していますが、
戊辰戦争では楢山が藩政を掌握し、
列藩同盟に参加して秋田戦争に藩兵を派遣。
降伏後は一時白石藩に減転封されますが、
重臣や領民の反対運動により、
上納金を条件に盛岡藩復帰が認められます。

利敬の墓と利剛の墓の間を抜けると、
初代南部三郎光行らの五輪塔があります。

麗樹院殿(右)」「成就院(右2)」、
源性院殿(左2)」「了智院殿(左)」。
右から初代当主南部三郎光行
9代当主南部祐政、11代当主南部信長
12代当主南部政行の墓。
南部家始祖南部光行は加賀美遠光の三男で、
源頼朝に与して戦功を挙げ、
陸奥国糠部五郡を与えられました。
他は鎌倉時代南北朝時代の当主ですが、
この辺はよくわかりません。

南部家は700年近く同地を治めた領主で、
これは世界的にも珍しいという。
とはいえ同様の領主が全国に四家もいます。
この盛岡藩南部家の他、
相馬中村藩相馬家人吉藩相良家
対馬府中藩宋家薩摩藩島津家で、
これらは中央より遠いのが理由とされ、
また島国の対馬府中藩は別としても、
戦に強いという共通点がありました。

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