南部家の墓所へ。
長い石段を登った先が南部家墓所。
この上に13人の当主(9人の藩主)の墓と、
南部家一族の墓があります。
「28代南部重直の墓(中央)」、
「32代南部利幹の墓(右)」、
「34代南部利雄の墓(左)」。
※いつもは墓碑に刻まれる戒名を読んでいますが、
今回は多すぎるので「〇〇の墓」とします。
石段頂上手前を右に曲がった場所。
南部重直は2代藩主。彼の時代に盛岡城が完成し、
盛岡藩の基礎が出来上がりました。
南部利幹は6代藩主。財政悪化が進んだ時期の藩主で、
人員削減などの倹約政策を敷いています。
南部利雄は8代藩主。藩政を家老任せにし、
何を言っても「そうしろ」と答えた為、
「惣四郎殿」と陰口されたという。
「29代南部重信の墓(手前)」、
「38代南部利済の墓(奥)」。
石段を登り切った先の墓域。
南部重信は3代藩主。仁政を施して、
庶民から「花輪殿様」と慕われたという。
南部利済は12代藩主。
悪政を敷いて三閉伊一揆を誘発させて隠居しますが、
跡を継いだ南部利義を隠居に追い込み、
実弟の南部利剛を藩主に据えて実権を握ります。
しかし2度目の三閉伊一揆が起きると、
幕府が介入する事となって蟄居させられました。
写真より左側に30代南部行信の墓もあるのですが、
写真に納まりきれなかったみたいです。
「33代南部利視の墓」。
先程の墓域より右手に一段登った場所にあります。
南部利視は7代藩主。遊狩好きでよく領内を巡視し、
領内の風俗や民情をよく理解していたという。
面白い逸話として、髪が薄いのを気にして、
幕府に総髪の許しを得たというのがあります。
さらに一段登って墓所の最長部へ。
「36代南部利敬の墓」。
南部利敬は10代藩主。
彼の時代に盛岡藩は20万石に加増されています。
門閥よりも能力ある役人を多く登用し、
優れた藩政を行った他、旗本南部家に内部分地し、
七戸藩も立藩させました。
「正三位南部利剛墓」。
40代当主で15代藩主の南部利剛の墓。
12代藩主南部利済の傀儡でしたが、
幕府の命で利済が蟄居処分となると、
楢山佐渡や東政図を登用して藩政改革を推進。
両者の対立で方針はニ転三転しています。
奥羽列藩同盟に参加して秋田戦争に藩兵を派遣。
降伏した後は一時白石藩13万石に減封されますが、
重臣や領民の反対運動により、
上納金70万両を条件に盛岡復帰が認められました。
利敬の墓と利剛の墓の間を抜けると、
初代当主南部三郎光行らの五輪塔があります。
右から「初代南部三郎光行の墓」、
「9代南部祐政の墓」、
「11代南部信長の墓」、
「12代南部政行の墓」。
南部家始祖南部光行は加賀美遠光の三男で、
源頼朝に与して戦功を挙げ、
陸奥国糠部五郡を与えられました。
他は鎌倉時代や南北朝時代の当主ですが、
この辺はよくわかりません。
南部家は700年近く同地を治めた領主で、
世界的にも珍しいという。
珍しいといっても日本には同様の領主が4家もあり、
盛岡藩南部家の他、相馬中村藩の相馬家、
人吉藩の相良家、対馬府中藩の宋家、
そして薩摩藩の島津家が長期君臨しています。
これらは中央より離れていたのが理由とされますが、
島国の対馬府中藩は別としても、
薩摩藩兵の戦国時代及び幕末期の強さは知られ、
人吉藩は戦国時代に強大な島津家から自領を守っており、
相馬中村藩も磐城戦争で大いに活躍しました。
そして盛岡藩は久保田藩を秋田戦争で追い詰め、
弘前藩を野辺地戦争で撃退しています。
それぞれ戦に強いという共通点がありますが、
軍備や兵制、戦術といった具体的なものではなく、
士気みたいなものが高かったのかもしれませんね。
①/②/③
■関連記事■
・岩手県盛岡市 東禅寺(盛岡藩南部家墓所)
聖寿寺と同じく南部家の墓所。初代含め5人の藩主の墓所。
・岩手県盛岡市 盛岡城跡
盛岡藩南部宗家の居城跡。
・青森県八戸市 南宗寺墓地(八戸南部家墓所)
八戸南部家の歴代墓所。