盛岡藩南部家の代々墓所である聖寿寺。
開山は孤峰覚明(三光国師)で、
南部家初代当主南部光行の菩提を弔う為に、
三戸に創建されたことに始まります。
南部家の盛岡移転に伴い現在地に移転し、
寺領5百石を与えられていました。
「聖寿禅寺本堂」。
聖寿寺は明治以降衰退しており、
円形の本堂は昭和34年に再建されたもの。
盛岡の医学者久慈直太郎の寄進とのこと。
「千体地蔵堂」。
南部家所縁の子安地蔵尊が安置されるお堂。
かつては五重塔だったもので、
11代藩主南部利敬が蝦夷地警護の功で、
20万石に加増された事を祝い創建。
明治の衰退で伽羅の多くが売却され、
一階部分のみ旧藩医八角高遠が購入し、
寺へ寄進した為にかろうじて残りました。
南部家の納骨堂の傍には石碑群が・・。
「東巌川上先生碑銘(右端)」、
「湍水伊藤長有之碑(右2)」。
盛岡藩の儒者達ですが詳細はわかりません。
中央の碑は破損して読めなくなっています。
左の2つが楢山佐渡の碑と戦死の碑。
「楢山佐渡之碑(長い碑)」、
「盛岡藩士卒戊辰戦死之碑(左2)」。
楢山佐渡は22歳で家老となり、
嘉永6年に起こった三閉伊一揆では、
仙台藩領に逃亡した領民や仙台藩と交渉し、
盛岡藩の危機を救っています。
改革派家老東政図と対立しますが、
幕末期の盛岡藩政を主導し、
戊辰戦争では新政府の世に危機感を覚え、
奥羽越列藩同盟へ加盟。
同盟から離脱した久保田藩領に侵攻し、
総指揮をとって大館城を落城させました。
後に同盟諸藩が次々に離脱するに至り、
盛岡藩も降伏を余儀なくされ、
佐渡は敗戦の責を負って斬首されています。
「盛岡藩士卒戊辰戦死之碑」は、
戊辰戦争で戦死した盛岡藩兵を慰霊する為、
明治15年に建立された碑で、
15代藩主南部利剛の揮毫によるもの。
戦死之碑の脇を通って横山省三の墓所へ。
「横川省三墓」。
当ブログの趣旨とは外れますが、
日露開戦時に露軍輸送路破壊工作に従事し、
ロシア軍に捕縛されて銃殺された人物。
映画二百三高地の冒頭に出てくるので、
とりあえず参らせて頂きました。
彼はスパイとして異国で殺されましたが、
長州に潜伏して捕縛された神戸岩蔵など、
※記事はこちら。
歴史に埋もれた間者は多かった事でしょう。
さて、いよいよ南部家墓所へ向かいます。
①/②/③
■関連記事■
・岩手県盛岡市 東禅寺/盛岡藩南部家墓所
聖寿寺と同じく南部家の墓所。
・岩手県盛岡市 盛岡城跡
盛岡藩南部宗家の居城跡。
・秋田県大館市 大館城跡
楢山佐渡は大館城を攻め落としています。