南部家の墓所を出て楢山佐渡の墓所へ。
途中に榊山稲荷神社があります。
「榊山稲荷神社」。
家祖新羅三郎義光が崇敬した豊受大神を、
盛岡城築城時に榊山稲荷大明神として祀り、
盛岡の総鎮守としました。
盛岡城の廃城と共に一時廃社となりますが、
その後の昭和5年に現在地の北山に再建。
美しい庭園を有する神社です。
別名[もりおかかいうん神社]。
神社を越えて西側の聖寿禅寺墓地へ。
「楢山家墓所」。
22代南部政康の孫楢山義実を祖とし、
代々一門として家老織を務める楢山家。
戊辰戦争の敗戦で家名は断絶していますが、
明治22年に再興が許されており、
佐渡の墓碑も建てられました。
「楢山佐渡墓」。
楢山佐渡は楢山帯刀の長男として生まれ、
弱冠23歳で家老に就任。
第二次三閉伊一揆の鎮静に功を挙げ、
主席家老に昇進して藩政改革に乗り出し、
保守派に属して急進派の家老東政図と対立。
戊辰戦争で勤皇派を抑えて新政府に対抗し、
秋田戦争では大館城を攻略しました。
藩が新政府に降伏するとその責を問われ、
報恩寺で刎首されています。
後に盛岡出身の総理大臣原敬は、
報恩寺での戊辰戦争殉難者五十年祭で、
「戊辰戦争は即ちただ政見の異同のみ」
と祭文を読み上げ、当時の盛岡藩及び、
楢山佐渡の立場を語ったという。
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■関連記事■
・岩手県盛岡市 盛岡城跡
盛岡藩南部家の居城跡。
・秋田県大館市 大館城跡
楢山佐渡は大館城を落城させています。