永国寺は相良家9代当主相良前続が、
実底超真和尚を開山に迎えて創建。
領主相良家により代々保護されました。
幽霊寺として全国的に有名な寺で、
超真和尚が描いた幽霊掛軸が残っており、
毎年8月に幽霊まつりが行われるようです。
「永国寺」。
西南戦争では人吉に入った西郷軍が、
永国寺を本陣としており、
桐野利秋や村田新八が33日間滞在し、
野戦病院も兼ねていました。
西郷は桐野らに一切の指揮を任せ、
ウサギ狩りや球磨川で漁をしたり、
周辺を散策して過ごしたとされています。
「一井正典先生顕彰碑」。
近代歯科の先駆者一井正典の顕彰碑。
人吉藩郡奉行一井五郎の子で、
明治18年に渡米して歯科医学を学び、
フィラデルフィア・デンタルカレッジを、
首席で卒業したようで、
米国で日本人初の歯科院を開業しました。
帰国後は近代麻酔学や歯科医療に貢献し、
明治以降の皇族の侍医となっています。
また日本人初の米国教授でもあり、
ジウグリット先生と呼ばれたようですが、
これは英語ではなく方言が由来とのこと。
顕彰碑の後ろの墓は一井家の累代墓。
「人吉二番隊士の碑」。
人吉の不平士族は西郷軍に呼応し、
元藩士らによる人吉隊を結成しており、
植木の戦いや吉次峠の戦いに参加しました。
西郷軍が人吉に転陣すると、
二番隊、三番隊も結成されて、
五木方面に出陣しています。
碑は早瀬の戦いで戦死した6名の碑で、
明治12年に建立されたもの。
吉田一誠、羽月威興、恒松三郎、阿川男之、
宮原共太郎、甲斐思誠の名があります。
「本堂」。
綺麗な本堂は近年建て替えられたもの。
永国寺は創建以来何度か焼失しており、
西南戦争の人吉攻防戦でも焼失しています。
「西郷隆盛先生之遺蹟」碑。
西郷本営跡碑と紹介されている記念碑。
海軍大将山本善輔の揮毫とされていますが、
これは海軍大将山本英輔の間違いですね。
※山本権兵衛の甥。
「幽霊掛軸」。
本堂内にある幽霊掛軸(レプリカ)。
木上郷のある名士の妾が嫉妬に狂い、
幽霊となって本妻を苦しめていたという。
超真和尚はこの幽霊の醜い姿を絵に描き、
幽霊にこれを見せて因果の道理を説いて、
引導を渡して成仏させたとされ、
絵は寺宝として現在も残っています。
展示されている絵はレプリカですが、
毎年8月には本物が公開されるとのこと。
「幽霊が現れた古池」。
この池より幽霊が現れたとされます。
幽霊は水際が好きなのかな?
湧水によって綺麗な水を湛えているようで、
訪問時は水連が花を咲かせていました。
永国寺を出て正面の道を進むと、
西郷の宿舎新宮家の屋敷があります。
「武家屋敷(武家蔵・西郷隆盛宿舎跡)」。
西郷軍は廃城された人吉城ではなく、
永国寺に本陣を置きましたが、
西郷は前記したように指揮を桐野らに任せ、
ここを宿舎として狩りをしていました。
この門は人吉城堀合門を移築したもので、
貴重な人吉城の移築遺構。
母屋も藩主休憩所の御仮屋を移築したもの。
両軍は球磨川を挟んで砲撃戦を展開。
幕末に未曾有の大火災に遭った城下は、
再び火災の被害を受けています。
戦闘は3日続いて永国寺も焼失。
不幸中の幸いとしては、
上記の新宮家の屋敷が残った事と、
幽霊掛軸が焼失を免れたことでしょうか。
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