熊本県人吉市 人吉城跡②

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つづき。

中の御門跡より二の丸跡へ。

二の丸跡」。
二の丸御殿があった二の丸の跡。
江戸初期の藩主居館だった場所ですが、
太平の世には不便だったようで、
麓(現相良護国神社)に御殿を移しています。


本丸跡」。
護摩堂御先祖堂番所が建てられおり、
宗教的な意味合いの強い場所でした。


中の御門より下って御下門跡へ。
こちらが本来の登城口のようです。
急な坂がそのまま虎口となっていました。


御下門跡」。
山頂部の大手門。
巨大な櫓門が建てられていたという。


米倉跡」。
西へ進むと米倉の跡があります。
水運で年貢米が集められていました。


堀合門」。
復元された御館の北側の入口。
先を行くと相良護国神社の裏手に出ます。
門は土手町の武家屋敷に移築現存しており、
廃城の際に元藩士新宮家が拝領して、
自宅の門としたという。

武者返し石垣」。
御館裏手の球磨川沿いの石垣は、
西洋の技術槹出工法を用いた珍しいもの。
ねずみ返しのように敵を阻む効果の他に、
簡単に崩す事が出来るようになっています。


水の手門跡」。
球磨川に面した門で水揚げに使用され、
船着き場が設けられていました。

人吉藩は隣国薩摩藩に似た支配体制で、
領内に14もの外城が設けられており、
各地に郷士らの集落が形成されています。
また相良家が長期支配した事により、
分家が多くて家老や重臣も殆どが古参で、
これらの対立抗争が度々起こっていました。
家臣対立は時に死者を出す事もあったり、
藩主暗殺が噂される事もあったという。

幕末の文久2年。
鉄砲鍛冶職恒松寅助の家から出火した火は、
城下を焼き尽くして人吉城まで飛び火し、
人吉城の外曲輪の殆どを焼失しています。
この大火は寅助火事と呼ばれ、
鎌倉時代に相良家が人吉を支配して以来、
最悪の大火災となりました。
この復興に1万5000両の借財が必要となり、
隣接する熊本藩に借金を断られると、
大坂商人近江屋半右衛門に1万両を借り、
薩摩藩に5000両を借りています。

この火災によって武器庫も焼失した為、
藩内の砲術家松本了一郎を登用し、
オランダ式軍制への改革を開始。
松本は藩主用人となり実権を掌握しますが、
藩主相良頼基も疎ましく思うようになり、
松本の謀反の噂が流れた為、
山鹿流軍学師範であった新宮行蔵等、
松本が失脚させた者達を復帰させます。
新宮らは松本を上意討ちにしますが、
その後の人吉藩の軍制は山鹿流ではなく、
薩摩藩がもたらした英国式を採用。
藩是も勤皇に統一されました。

【人吉藩】
藩庁:人吉城
藩主家:相良家
分類:2万2000石、外様大名

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