福岡県北九州市 開善寺

開善寺小笠原貞宗信濃に中興した寺で、
鎌倉時代後期に四条頼基が創建したもの。
後に府中小笠原宗家小倉藩に入封すると、
信濃の開善寺と同名の寺を創建。
以後は重臣達の菩提寺として城下で栄え、
小倉戦争では小笠原長行が本営としました。
昭和36年に開発に伴って現在地に移転し、
現在に至っています。


本堂」。
足立山の西麓に移転した開善寺本堂は、
鉄筋コンクリート製。
空襲の被害に遭っているでしょうから、
貴重な建築物は無かったと思われます。


開善寺墓地」。
本堂よりさらに登った先にある墓地。
車で行ける道ではありますが、
かなり狭い道でしたので歩いて登りました。
※地元民や檀家さんは車で行くと思います。

墓地には新しい墓の交じり、
武家の古い墓も多くみられました。

澁田見舎人家墓所」。
小倉藩の中老家澁田見舎人家の墓所。
渋田見家は信濃の国人仁科氏の支族で、
小倉藩では仁科本流として遇されました。
幕末の当主は澁田見新
※渋田見新は小倉藩三番手大将。


小宮家墓所」。
こちらも小倉藩中老家の小宮家墓所。


只樂院仁山義鐵居士」。
小宮民部親懷の墓。
小宮は小倉藩士秋山光芳の二男に生まれ、
中老小宮親泰の養子となります。
嘉永6年より家老に就任して藩政に尽くし、
藩主小笠原忠幹の信任が厚かったようで、
加増と共に民部の名を賜りました。
忠幹が小倉戦争中に死去してしまった為、
これを藩外には秘匿しており、
長州勢が小倉城に迫ると籠城は不利として、
小倉城を自焼させていますが、
その責任をとって隠居後に自刃してます。

この他、小笠原内匠家原家犬甘家など、
小倉藩重臣の墓も多くありました。

さて千束藩藩主の墓所。
正確には千束藩は江戸期には小倉新田藩で、
千束に藩庁を置いて千束藩となったのは、
維新後の明治2年の事です。
ここにある墓は初代小笠原眞方のみで、
千束藩というよりは小倉新田藩主の墓所。

慈済院殿備州刺史智觀慧公大居士之墖
小倉新田藩初代小笠原眞方の墓。
小倉藩初代小笠原忠真の四男として生まれ、
兄の2代小笠原忠雄に1万石を分与され、
新田藩主となって諸候に列しました。
この小倉新田藩は江戸時代初期に立藩し、
領地のない蔵米支給のはずですが、
何故か参勤交代を行っていたようです。
眞方は参勤を終えて小倉への帰路の際、
大坂より海路明石海峡で難風に遭遇し、
小豆島まで流されて坂手浦蛭児岩で沈没。
この事故で百人余りが犠牲になりました。
坂手浦に次々と遺体が流れ着いて、
その中には眞方のものもあったという。
遺体は小倉に送られて荼毘に付され、
葬儀の後に開善寺に葬られています。
墓は寺が移転した際に改葬されたもので、
眞方以外の藩主の墓はありません。
実際は3代小笠原貞顕まで、
開善寺に葬られていたようですが、
空襲で破壊されてしまったのでしょう。
後に小倉新田藩は定府となっており、
歴代藩主は江戸海禅寺に埋葬されました。
※昭和初期に千束に改葬されています。

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