花岳寺は赤穂藩浅野家初代浅野長直の創建。
浅野家の菩提寺となっていましたが、
元禄赤穂事件によって浅野家は改易となり、
藩主家が永井家を経て森家に代わった後は、
森家の菩提寺となっています。
「本堂」。
二重屋根、扇垂木の立派な本堂。
土間の天井には竹に虎が描かれています。
駐車場は境内の中にありますが、
訪問後も車で境内から出ることになり、
山門の写真を撮る事を忘れましたが、
赤穂城の塩屋惣門を移築したもので、
撮り忘れが非常に悔やまれます。
墓所への拝観は大人400円。
「忠義塚」。
赤穂義士50回忌記念で建立されたもの。
亀趺付の立派な慰霊碑です。
「赤穂義士墓所」。
赤穂義士は泉岳寺に葬られていますが、
37回忌に赤穂藩森家の有志らが建立し、
遺髪が納められたとされています。
中央が浅野内匠頭長矩の墓で、
左右に大石内蔵助良雄、大石主税良金の墓。
以下、壁沿いに義士達の墓が並んでいます。
「浅野家霊廟」。
赤穂藩浅野家の位牌が納められた霊廟。
森家ではなく浅野家なのが不思議でしたが、
大正7年に浅野宗家が寄進したもの。
この霊廟脇に森家霊廟の役瓦が残されおり、
森家の霊廟もあったようです。
「義士宝物館」。
義士関連の資料や遺品が展示されており、
吉良上野介に止めを刺した短刀など、
ものすごいお宝が展示されていました。
この奥には義士木像堂もあり、
四十七士の木像が安置されています。
墓域へ。
「捐舘 華嶽院殿鋳山道牛大居士」。
真壁藩、笠間藩藩主浅野長重の墓。
赤穂藩初代浅野長直が建立したもの。
浅野長政の三男浅野幸長が宗家を継ぎ、
長政は5万石を隠居料としていましたが、
その遺領を長重が相続して真壁藩を立藩。
後に笠間に藩庁を移しました。
「捐舘 久岳院殿前朝散太夫
行少府僚湖山常清大居士 神儀」。
初代浅野長直の墓。
父長重の跡を継いで笠間藩主となり、
駿府城代や大坂加番を務め、
赤穂藩池田家の改易の際には、
赤穂城の受け取りを担当。
そのまま国替えで赤穂藩主となっています。
「捐舘 景永院殿前朝散大夫
行釆女令心巌異即大居士 神儀」。
2代浅野長友の墓。
長直の隠居によって家督を継ぎますが、
僅か4年の治世で早逝しており、
跡は当時9歳であった長矩が継ぎました。
墓地には義士の親戚の墓もあります。
「大石家先祖の墓」
大石内蔵助の娘、祖父、祖母、父、
および義士のひとり大石瀬左衛門の父の墓。
他に各義士らの家族の墓もありました。
さて森家の墓所です。
僕のように森家墓所目当てに来訪する人は、
どれ程いるのだろうか・・・。
「森家墓所」。
森家は織田信長の家臣森可成の系譜で、
朝倉攻めで可成は討死していますが、
その可成には6人の子がいました。
長男森可隆は父と共に初陣で討死し、
家督は次男森長可が相続。
織田家の主な戦さに参陣して武勇を挙げ、
本能寺の変の後は羽柴秀吉に与しています。
三男は森蘭丸として知られる信長の小姓で、
四男森坊丸、五男森力丸と本能寺で討死。
長可も小谷長久手の戦いで討死し、
残された六男森忠政が跡を継いでいます。
関ヶ原の戦いでは東軍として戦っており、
川中島藩13万7000石を立藩。
後に津山藩に加増転封となりました。
5代森衆利の発狂で改易されますが、
4代森長継が2万石で再興しており、
※この2万石は長継の隠居料。
次代森長直が赤穂藩に転封となって、
以後は廃藩置県まで赤穂藩を治めています。
「捐舘 鐵性院殿従五位下前泉州太守
一峯浄空大居士 神儀」。
赤穂藩森家初代藩主森長直の墓。
入封当初から財政難であった為、
浅野家より続く塩の生産を奨励し、
塩田開発に力を入れました。
「捐舘 大観院殿従五位下前勢州太守
圓覺浄智大居士 神儀」。
4代藩主森政房の墓。
3代森長生に実子がいなかった為、
その養子となって家督を相続。
15年の治世の後に死去しています。
墓域にある五輪塔。
碑銘が風化して解読不能です。
最後の藩主12代森忠儀の墓か、
森家の累代墓かもしれませんが、
もっと古いもののようですので、
よくわかりません。
花岳寺は中々見ごたえのある寺院でした。
まだ泉岳寺を訪問したことがありませんが、
いずれは訪れたいと思います。
忠臣蔵が放映されなくなって久しいですが、
何年かに一度はやってほしいもの。
現代の若者達が興味を持てるように、
イケメンを揃えたものでも良いですし、
アニメでやってもいいかもしれませんね。
■関連記事■
・兵庫県赤穂市 赤穂城跡①
赤穂藩森家の居城跡。
・東京都港区 泉岳寺
赤穂浪士の墓所。
・忠臣蔵と幕末
幕末期の志士達と忠臣蔵の関係。
・岡山県津山市 津山城跡
かつての森家の居城跡。