つづき。
①/②
大石神社のある三之丸跡より二之丸跡へ。
「中堀」。
三之丸と二之丸を分ける中堀(二之丸外堀)。
平城や平山城は多重の堀をめぐらして、
初めてその防御力を発揮するというもの。
石垣や櫓台も綺麗に復元されています。
「贈正四位山鹿素行先生銅像」。
二之丸門跡にある山鹿素行の銅像。
素行は山鹿流兵法及び古学派の祖で、
林羅山に漢学や朱子学を学び、
小幡景憲に甲州流軍学を、
北条氏長に北条流軍学を学び、
後に山鹿流軍学を創始しました。
軍事戦法のみではなく士道学を取り入れ、
実学に重点を置いた教育が成されます。
素行は幕府の推進する朱子学を批判した為、
江戸を追放されて赤穂藩へ預けられており、
二之丸周辺の縄張りを助言したという。
後に許されて江戸に戻ってますが、
多くの門弟に兵学を教授しています。
山鹿流は弘前藩や平戸藩で受け継がれ、
幕末期には長州藩の吉田松陰、
熊本藩の宮部鼎蔵、大垣藩の小原鉄心など、
この山鹿流兵法を学びました。
「大石頼母助屋敷門」。
家老大石頼母助の屋敷門で、
発掘調査による礎石などの遺構に基づき、
再現された門とのこの。
頼母助は大石内蔵助の大叔父にあたり、
赤穂配流中の素行はここで暮らしたという。
「二之丸庭園」。
大石頼母助屋敷跡に造られた廻遊式庭園。
素行の日記には大石邸の庭園で、
舟遊びをした記録があり、
この庭園の池が錦帯池と呼ばれていました。
二之丸跡を抜けて本丸跡へ。
「本丸高麗門」。
正門は高麗門と櫓門の桝形虎口ですが、
双方は少しずれただけとなっています。
平成4年から4年間掛けて復元されたもの。
「本丸御殿跡」。
赤穂城は平城で本丸御殿があるタイプの城。
盤上に部屋の間仕切りが示されており、
御殿の間取りかわかるようになっています。
「大池泉と天守台」。
本丸御殿には池泉式庭園が設けられおり、
大池泉は3つあった池の最大のもの。
※他に中奥坪庭の小池泉、
本丸北西隅の池泉があります。
天守台は高さ9mを誇る大きなものですが、
天守自体は築城当初は建てられていません。
本丸庭園は二之丸庭園と共に国指定名勝。
「厩口門(台所門)」。
本丸搦手門で浅野家時代は厩口門と呼ばれ、
森家の時代に台所門と称されたようです。
本丸跡を囲む内堀。
この堀も埋め立てられた後に、
掘り返されて復元されたもの。
播州赤穂といえば塩の名産地です
浅野長直が赤穂に入封して以降、
大規模な入浜塩田の開発が進められ、
浅野家断絶後も森家に引き継がれて、
塩田は拡大しました。
赤穂の塩田は千種川を挟み、
東浜と西浜に分かれており、
東浜では東日本で好まれる差塩(並塩)、
西浜では上方向けの真塩(上質塩)を生産。
全国に出荷して莫大な富を齎しています。
幕末の赤穂藩は派閥争いで藩政は安定せず、
飢饉や物価の高騰で財政も逼迫しており、
保守派の家老森主税と、
用人村上真輔が実権を握りますが、
尊攘派の下級藩士らに暗殺されます。
この事件によって尊攘派が実権を握り、
家老森続之丞が藩政を主導しますが、
藩内は不安定な状態となりました。
赤穂藩は長州征伐で大坂警備を担当し、
一応は佐幕の姿勢を保っていましたが、
鳥羽伏見の戦いの後に新政府に恭順。
後に村上の遺族が仇討ちの気配を見せると、
藩は実行犯達を高野山に逃がします。
遺族らは高野山に入る前に仇を討ち、
最後の敵討ちのひとつとなりました。
※正確には本多義士の敵討ちの方が後。
赤穂藩森家の藩祖森忠政(津山藩主)は、
兄で鬼武蔵と呼ばれた森長可の弟で、
兄の戦死後に家督を継いでいますが、
その際に長可が愛用する槍も相続します。
これが人間無骨という十文字槍で、
長可が使用したこの槍の前では、
人間は骨が無きに等しいとされました。
御殿の玄関にはこの槍が掲げられ、
参勤交代の際には一番道具に用いられ、
森家の行列の象徴となっていたという。
時代が下がると行列には写しが用いられ、
本物は赤穂城で保管されていたようですが、
現在も森家が所有しています。
全国には5万余の城跡があるとされます。
しかし完全な状態で復元さたものは皆無。
今後完全な状態で城が復元されるとすれば、
赤穂城がその候補のひとつでしょう。
【赤穂藩】
藩庁:赤穂城
藩主家:美濃森宗家
分類:2万石、外様大名
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