兵庫県赤穂市 赤穂城跡①

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赤穂藩といえば元禄赤穂事件が有名ですが、
この事件で赤穂藩浅野家は改易となり、
その後は永井直敬を経て森長直が入封。
以後は森宗家が廃藩まで12代続きました。
とはいえ赤穂藩=浅野家のイメージは強く、
※赤穂藩浅野家は広島藩浅野家の支流。
現在の赤穂市浅野家推しが強いようです。


大手門」。
日本の城の多くは開発で外郭を失い、
その遺構は本丸中心に残されていますが、
赤穂城本丸二ノ丸はおろか、
三ノ丸の復元も計画されており、
現在もこつこつと復元工事が進行中。
なんとも素晴らしい方針だと思います。


大手隅櫓」。
大手門と共に復元された隅櫓。
ここから復元する事こそが、
市の本気の証でしょう。

大石神社のある三ノ丸跡の敷地へ。

近藤源八宅跡長屋門」。
枡形虎口を抜けると左側にある長屋門。
近藤源八は赤穂藩の甲州流軍学者で、
千石番頭の役職でした。
妻は大石内蔵助の叔母にあたり、
大石家とは親戚関係にあったようですが、
高齢の為か義盟には加わっていません。


大石良雄宅跡長屋門」。
筆頭家老大石家の正門である長屋門。
主君の刃傷事件の報を伝える使者が、
この門を叩いたとされます。
※使者は早水藤左衛門萱野三平とのこと


大石神社」。
四十七士の石像が出迎える大石神社。
大石内蔵助および四十七士を祀ります。


神門(義芳門)」。
神戸の湊川神社の神門だったもので、
湊川神社の神門が建て替えられる際に、
忠臣という縁でここに移築されています。
湊川神社は神戸大空襲で焼失しており、
創建当時の湊川神社の遺構となりました。


拝殿」。
大石神社には大石内蔵助以下四十七士の他、
忠義と孝行の間に悩んで自刃した萱野三平、
赤穂藩浅野家藩主3代、森家の遠祖七将が、
ここに合祀されています。
織田信長家臣森可成。その子森可隆
 森長可森蘭丸森坊丸森力丸
 森忠政(津山藩初代)の七将。


大石内蔵助良雄銅像」。
大石内蔵助は赤穂藩の筆頭家老でしたが、
藩主浅野長矩が高家吉良上野介を斬り付け、
切腹を命じられたことから、
この罪で赤穂藩浅野家は断絶となります。
大石は赤穂城を明け渡した後、
赤穂藩浅野家の再興を目指しますが、
再興は絶望的となった為に討ち入りを決意。
遺臣47人と共に吉良を討ち取りました。
世間は彼らを義士であると称賛しますが、
幕府は法と秩序を尊重して切腹を命じます。
後に事件は浄瑠璃歌舞伎で取り上げられ、
庶民の娯楽として人気を博しており、
武士達も忠義の美徳に魅了されていました。
吉田松陰高杉晋作なども事を起こす際、
討ち入りと同日にしていましたし、
新選組の隊服であるダンダラ羽織も、
浅野家の火事装束を模しています。

三ノ丸跡の再建まで計画される理由として、
大石神社が大きく関係しているのでしょう。

つづく。
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