兵庫県赤穂市 赤穂城跡②

つづき。
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大石神社のある三之丸跡より二之丸跡へ。

中堀」。
三之丸と二之丸を分ける中堀(二之丸外堀)。
本来の平城平山城は多重の堀をめぐらして、
初めてその防御力を発揮するというもの。
石垣や櫓台も綺麗に復元されています。


贈正四位山鹿素行先生銅像」。
二之丸門跡にある山鹿素行の銅像。
素行は山鹿流兵法及び古学派の祖で、
林羅山漢学朱子学を学び、
小幡景憲甲州流軍学を、
北条氏長北条流軍学を学び、
後に山鹿流軍学を創始しました。
軍事戦法のみではなく士道学を取り入れ、
実学・教学に重点を置いた士道教育がなされます、
幕府の推進する朱子学を批判した為、
江戸を追放されて赤穂藩へ預けられており、
二之丸周辺の縄張りを助言したという。
後に許されて江戸に戻っており、
多くの門弟に兵学を教授しています。
山鹿流は弘前藩平戸藩などで受け継がれますが、
幕末期には長州藩吉田松陰熊本藩宮部鼎蔵
大垣藩小原鉄心なども山鹿流を学びました。


大石頼母助屋敷門」。
二之丸に屋敷を構えていた家老大石頼母助の屋敷門で、
発掘調査による礎石などの遺構に基づき再現されたもの。
頼母助は大石内蔵助の大叔父にあたり、
山鹿素行は赤穂配流中はこの屋敷で暮らしたという。


二之丸庭園」。
大石頼母助屋敷跡に造られた廻遊式庭園
素行の日記に大石邸の庭園で舟遊びをした記録があり、
この庭園が錦帯池と呼ばれていたとされています。

二之丸跡を抜けて本丸跡へ。

本丸高麗門」。
本丸への正門は高麗門櫓門桝形虎口となっていますが、
双方の門は少しずれただけとなっています。
これらは平成4年から4年間掛けて復元されたもの。


本丸御殿跡」。
赤穂城は平城で本丸に藩庁があるタイプの城。
コンクリート盤上に部屋の間仕切りが示されており、
どのような間取りかわかるようになっています。


大池泉天守台」。
本丸御殿には池泉式庭園が設けられおり、
大池泉は3つあった池の最大のもの。
※他に中奥坪庭の小池泉、本丸北西隅の池泉があります。
天守台は高さ9mを誇る大きなものですが、
天守自体は築城当初から建てられていません。
この本丸庭園は二之丸庭園と共に、
旧赤穂城庭園として国指定の名勝となっています。


厩口門(台所門)」。
本丸の搦手門浅野家時代に厩口門と呼ばれましたが、
森家の時代には台所門と称されたようです。


本丸跡を囲む内堀
この堀も埋め立てられた後に復元されたもの。

播州赤穂といえば塩の名産地として知られます。
浅野長直が赤穂に入封して以降、
大規模な入浜塩田の開発が進められており、
浅野家断絶後も森家に引き継がれて拡大しました。
赤穂の塩田は千種川を挟んで東浜西浜に分かれ、
東浜では東日本で好まれる差塩(並塩)、
西浜では上方向けの真塩(上質塩)が生産され、
全国に出荷されて赤穂に莫大な富をもたらしています。

幕末の赤穂藩は派閥争いで藩政は安定せず、
飢饉や物価の高騰によって財政も逼迫しており、
保守派の家老森主税と用人村上真輔が実権を握りますが、
この2人は尊攘派の下級藩士らに暗殺されます。
これにより尊攘派家老森続之丞が藩政を主導しますが、
森主税と村上真輔の遺族には敵討ちを禁じ、
藩内は不安定な状態となりました。
赤穂藩は2度の長州征伐では大坂警備を担当し、
一応は佐幕の姿勢を保っていましたが、
鳥羽伏見の戦いの後に新政府に恭順。
後に村上真輔の遺族が敵討ちの気配を見せると、
藩は実行犯達を仇討法度高野山に逃がしますが、
遺族らは高野山に入る前に仇を討ち、
これが最後の敵討ちのひとつになっています。
※正確には本多義士の敵討ちの方が後。

日本全国には4~5万の城跡があるとされます。
しかしながら完全な状態で復元さたものは皆無。
仮に今後完全な状態で城が復元されるとすれば、
赤穂城がその一番の候補なのではないでしょうか?

【赤穂藩】
藩庁:赤穂城
藩主家:美濃森宗家
分類:2万石、外様大名

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