①/②
赤穂藩といえば元禄赤穂事件が有名ですが、
この事件で赤穂藩浅野家は改易となり、
その後は永井直敬を経て森長直が入封。
以後は森宗家が廃藩まで12代続きました。
とはいえ赤穂藩=浅野家のイメージは強く、
※赤穂藩浅野家は広島藩浅野家の支流。
現在の赤穂市も浅野家推しが強いようです。
「大手門」。
日本の城の多くは開発で外郭を失い、
その遺構は本丸中心に残されていますが、
赤穂城は本丸、二ノ丸はおろか、
三ノ丸の復元も計画されており、
現在もこつこつと復元工事が進行中。
なんとも素晴らしい方針だと思います。
「大手隅櫓」。
大手門と共に復元された隅櫓。
ここから復元する事こそが、
市の本気の証でしょう。
大石神社のある三ノ丸跡の敷地へ。
「近藤源八宅跡長屋門」。
枡形虎口を抜けると左側にある長屋門。
近藤源八は赤穂藩の甲州流軍学者で、
千石番頭の役職でした。
妻は大石内蔵助の叔母にあたり、
大石家とは親戚関係にあったようですが、
高齢の為か義盟には加わっていません。
「大石良雄宅跡長屋門」。
筆頭家老大石家の正門である長屋門。
主君の刃傷事件の報を伝える使者が、
この門を叩いたとされます。
※使者は早水藤左衛門、萱野三平とのこと。
「大石神社」。
四十七士の石像が出迎える大石神社。
大石内蔵助および四十七士を祀ります。
「神門(義芳門)」。
神戸の湊川神社の神門だったもので、
湊川神社の神門が建て替えられる際に、
忠臣という縁でここに移築されています。
湊川神社は神戸大空襲で焼失しており、
創建当時の湊川神社の遺構となりました。
「拝殿」。
大石神社には大石内蔵助以下四十七士の他、
忠義と孝行の間に悩んで自刃した萱野三平、
赤穂藩浅野家藩主3代、森家の遠祖七将が、
ここに合祀されています。
※織田信長家臣森可成。その子森可隆、
森長可、森蘭丸、森坊丸、森力丸、
森忠政(津山藩初代)の七将。
「大石内蔵助良雄銅像」。
大石内蔵助は赤穂藩の筆頭家老でしたが、
藩主浅野長矩が高家吉良上野介を斬り付け、
切腹を命じられたことから、
この罪で赤穂藩浅野家は断絶となります。
大石は赤穂城を明け渡した後、
赤穂藩浅野家の再興を目指しますが、
再興は絶望的となった為に討ち入りを決意。
遺臣47人と共に吉良を討ち取りました。
世間は彼らを義士であると称賛しますが、
幕府は法と秩序を尊重して切腹を命じます。
後に事件は浄瑠璃、歌舞伎で取り上げられ、
庶民の娯楽として人気を博しており、
武士達も忠義の美徳に魅了されていました。
吉田松陰や高杉晋作なども事を起こす際、
討ち入りと同日にしていましたし、
新選組の隊服であるダンダラ羽織も、
浅野家の火事装束を模しています。
三ノ丸跡の再建まで計画される理由として、
大石神社が大きく関係しているのでしょう。
つづく。
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