香山公園は瑠璃光寺と香山墓所で構成され、
山口観光のメインスポットとなっています。
「五重塔」。
大内文化の最高傑作とされる五重塔。
京都醍醐寺、奈良法隆寺の塔と共に、
日本三名塔とされています。
※宇陀の室生寺、鶴岡の羽黒山の五重塔も、
日本三名塔に含まれる場合もある。
1階は日本仏塔唯一の円型須弥壇で、
僧形の大内義弘像と阿弥陀如来像が、
そこに祀られています。
一説には全盛期の当主大内義弘の遺骸は、
この五重塔の下にあるとも云われています。
「大内弘世公之像」。
大内宗家は元弘の乱で鎌倉幕府方だった為、
建武の親政では当主大内弘幸は冷遇され、
叔父鷲頭長弘が周防守護職に任じられます。
これに弘幸は反発して足利尊氏に与し、
子の大内弘世と共に長弘と争いました。
後に弘世は鷲頭氏を従属させて周防を平定。
長門も平定させて防長二国の守護職となり、
山口に京都を模した街づくりを開始し、
これが大内文化の始まりとなります。
「瑠璃光寺」。
弘世の長男で次代当主の大内義弘は、
3代将軍足利義満に忠節して功績を挙げ、
防長二国を含む6ヶ国の守護職を兼ねて、
大内家の全盛期を築き上げました。
現在の瑠璃光寺のある場所は、
義弘が香積寺を建立した場所でしたが、
後の毛利家の治世で香積寺は萩に移り、
仁保にあった瑠璃光寺が跡地に移転し、
現在に至っています。
「枕流亭」。
山口の脇本陣安部家の離れだったもので、
西郷吉之助や大久保一蔵が枕流亭に宿泊し、
桂小五郎や広沢真臣と会談したとされます。
内部は無料で見学が可能。
「露山堂」。
山口政事堂内に建てられていた茶室。
敷地内に元々市郎山という小山があり、
毛利敬親はこれを一露山と改称し、
この茶室を建てて茶の湯を楽しんだという。
説明等では「茶室とは名ばかりで、
討幕の密儀が行われていた場所」とされ、
殺伐として品の無い感じになっていますが、
敬親は萩にも花江茶亭を建てさせており、
純粋に茶の湯を好んたと思われます。
維新後に所有が数度代わって、
各所に移築を繰り返し、
これを憂いた品川弥二郎が現在地に移築。
同時に庭園も整備しています。
「贈従一位毛利公偉勛銘」。
香山墓地内にある毛利敬親の勅撰銅碑。
明治天皇の命によって建てられたもので、
野村素介の書として勅撰銅碑の中でも、
最も美しいものとされています。
「うぐいす張りの石畳」。
毛利家墓所への参道。
石段に向かって手を叩いたり、
強く足踏みをすると美しい音が響くという。
観光客もここでしきりに手を叩きますが、
なんとなく響いている気はしないでもない。
響くように計算して造られた訳ではなく、
たまたま響くようになったようです。
「萩藩毛利家墓所」。
藩祖毛利輝元の天寿院跡、
初代及び偶数代の天照院、
奇数代の東光寺と同じく毛利宗家の墓所。
13代藩主毛利敬親夫妻、
14代藩主毛利元徳夫妻、
29代当主毛利元昭夫婦、
及び累代の墓があります。
「贈従一位大江朝臣敬親卿墓」。
13代毛利敬親の墓。
幕末期の賢君とされる四賢候などは、
自ら率先して親政を行う藩主達でしたが、
敬親は有能な家臣らを活躍させました。
「〇〇がいなかったなら、
明治維新は無しえなかった」など、
多くの志士達が称されてはいますが、
実際には敬親が長州藩主でなかったならば、
吉田松陰や高杉晋作などは、
早い時点で殺されたでしょうし、
攘夷の先鋒にもならなかったでしょう。
四賢候はワンマンカリスマ社長で、
敬親は有能な人材を活用した経営者。
紆余曲折はありましたが、
最終的に長州藩が勝利したのは、
敬親が長州藩主だったからでしょう。
「贈正一位大江朝臣敬親卿夫人妙好墓」。
13代敬親正室都美姫の墓。
12代毛利斉広の長女として生まれますが、
斉広は家督を継いだ後の僅か19日で病死。
11代毛利斉元の長男慶親が跡を継ぎ、
都美姫を正室とする事が決定されますが、
僅か5歳の為に輿入れは10年後でした。
文久2年に妻子の国許居住が許された為、
翌年に山口政事堂内の御殿に移住。
以後は激動の長州藩の銃後の守りを務め、
※防府市の毛利博物館には、
都美姫の甲冑が残されています。
明治4年に敬親が死去すると、
落飾して妙好と称しました。
大正2年、死去。
「従一位勲一等公爵毛利元徳卿墓」。
14代毛利元徳の墓。
徳山藩8代毛利広鎮の十男として生まれ、
宗家13代敬親の養嫡子となります。
幕末には世子として藩主の名代として活躍。
明治2年に家督を継いで最後の藩主となり、
藩知事を経て廃藩置県で免官になりました。
貴族院議員を務めた他、
第十五国立銀行頭取に就任。
毛利家家憲を制定して防府の毛利邸を建設。
明治29年に死去しました。
「従一位勲一等公爵
毛利元徳卿夫人安子墓」。
14代元徳正室銀姫の墓。
長府藩12代毛利元運の次女として生まれ、
宗家の慶親(敬親)養女になり、
元徳(当時は定広)を婿に迎えます。
名代として元徳が留守を多くする中で、
義母都美姫と家中を盛り立てたとされ、
元治2年に世継ぎの興丸(元昭)を出産し、
入浴も自ら行うなど、
養育に人手を借りなかったという。
維新後は婦人教育や慈善活動に力を注ぎ、
大日本婦人教育協会会長等を務めています。
「正二位勲ニ等公爵毛利元昭墓」。
毛利宗家29代当主毛利元昭の墓。
元治2年に元徳と銀姫の間に生まれ、
維新後は東京に移住していましたが、
元徳が防府に御殿を建設するとそこに移り、
公務以外は殆ど御殿で過ごしたという。
書に優れ多くの石碑の揮毫を行っています。
「公爵夫人毛利美佐子墓」。
29代当主元昭夫人毛利美佐子の墓。
三条実美の三女。
元昭が徳川慶勝の娘富子と離縁した後、
後妻として毛利公爵家に入りました。
元昭との間にニ男二女を儲けています。
昭和9年に死去。
「毛利本家歴代諸霊之墓」。
墓所右端の累代墓。
歴代諸霊という事は家祖毛利季光から?
毛利家は大江広元の四男季光が、
所領の相模国の毛利荘から名乗った姓で、
孫の毛利時親が安芸国の吉田荘に移り住み、
安芸国人領主となった家でした。
その後、戦国時代に毛利元就が現れ、
中国10ヶ国を領する覇者に成長。
後に防長二国に減封されますが、
幕末期に尊皇攘夷の急先鋒となり、
明治維新に大きく貢献しています。
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