江戸時代初期より長州藩の藩庁は萩の指月城でしたが、
幕末に攘夷決行に備えて海に面した萩から、
内陸で領地の中心でもある山口に藩庁が移されました。
長州藩が萩を藩庁としたのは幕府の指示であり、
もちろん勝手に藩庁を移すことも、
領内に城を新たに造る事も許されません。
幕府への申告には、萩は下関や二田尻、
室積などの領内要所からは遠く、
イザというときの指示号令に差し障りがあるので、
仕方なく山口に仮移転するという趣旨で報告し、
指月城はそのままで、金銀や家来、妻子は萩に留めて、
あくまで仮の出張政庁を置くだけだとしています。
「旧山口藩藩庁門」。
山口政事堂唯一の木造遺構。
切妻造、本瓦葺きの薬医門です。
「山口藩廳跡」碑。
門の脇に跡碑があります。
ちなみに山口ってのは長門国(長州)ではなく、
周防国(防州)なんですよね。
山口に藩庁が移って長州藩ってのはおかしいわけですが、
まあだれも防州藩なんて呼びませんよね。
「水堀」。
堀も数少ない遺構のひとつ。
錦鯉や白鳥が泳ぎ、噴水もあります。
「山口県庁」及び「山口県警察本部」。
山口政事堂跡は、現在県庁と県警本部が置かれています。
幕長戦争に勝利した長州藩は正式に山口政事堂を藩庁とし、
正式に山口藩となります。
明治4年に廃藩置県が行われて廃城となった後も、
山口県庁が置かれてました。
「山口県政資料館」。
旧山口県庁舎と旧山口県議会議事堂からなり、
国会議事堂を手がけた妻木頼黄や武田五一、
大熊喜邦が設計した大正建築の煉瓦造の建物です。
昭和59年に現在の県庁が建てられるまで、
県庁舎として使用されていました。
山口政事堂は山口城とも呼ばれますが、
定義的には城ではなく陣屋形式といったところでしょう。
もちろんその敷地は、陣屋というには広大すぎる規模ですが、
一重の堀が作られたのみのものです。
実際の防御としては、そこまで厳重ではないようですが、
ここを攻められるようではすでに長州藩はアウト。
そんなことよりも別に金を使うべきでしょう。
現に幕長戦争では領内に入れる前に攻め込むという、
先制攻撃の態勢をとっています。
海沿いから内陸に拠点を移すというのは、
支藩の長府藩が行っています(記事はこちら)。
こちらの場合は、諸外国の攻撃に備えるための要塞でしたが、
山口の場合、指揮系統のタイムロスを無くすためのもので、
広大な長州藩領において、下関や三田尻、岩国などの要所へは、
萩からでは指示に時間が掛かりますが、
領内の中心である山口に藩庁を置くことにより、
このタイムロスを少なくすることができます。
特に幕長戦争時は四方から幕軍が攻めてくるわけで、
萩では対応が出来なかったでしょう。
そういう意味では、幕長戦争勝利に多大な貢献をした城ですね。
【長州藩(山口藩)】
藩庁:山口政事堂
藩主家:安芸毛利宗家
分類:36万9000石、外様大名(国持)
■関連記事■
・萩市 指月城跡
山口政事堂に移転する前の長州藩の藩庁。
・下関市田倉 勝山御殿(再訪)
長府藩も内陸に藩庁を移しています。
・山口県山口市 山口政事堂跡
最初に訪問した際の古い記事。