鋳銭司の大村益次郎墓所を訪れたのは6年前。
近くまで来たので久々に行ってみました。
明治2年9月3日。
大村益次郎は京都三条木屋町の旅館で、
長州藩大隊指令静間彦太郎や、
加賀藩藩士安達幸之助らと会食。
夕刻に男が訪ねて来て面会を申し込み、
取り次ぎに萩原秋蔵という名刺を見せますが、
大村は若党の山田善次郎を出して、
来客中を理由に面会を断らせます。
しかし相手は是非今晩と食い下がるので、
山田は引き返して奥に戻ろうとすると、
その2人が踏み込んで山田に斬り付け、
奥に居る大村にも斬り掛かりました。
これを山田が身を挺して大村を守り、
安達と静間は鴨川の河原に逃げたので、
賊は彼らを大村と勘違いして追いかけ、
大村は騒ぎが収まるまで風呂桶に潜伏。
安達と静間は追ってきた賊と、
河原で待ち伏せていた賊に惨殺され、
山田も深手を負って翌朝に絶命。
※この時の賊は団伸二郎、神代直人ら8名。
大村も額や膝など6ヶ所に傷を負う重傷となり、
河原町の長州藩邸で治療を受けていましたが、
思いのほか膝の傷が重傷だということで、
蘭医ボードウィンの治療を受ける為、
大坂の病院に移り右脚の切断が行われました。
※シーボルトの娘イネも看護したという。
手術は成功して一時回復に向かいますが、
再び容態が悪化して11月5日に死亡。
遺言により右脚は師の緒方洪庵の墓の傍らに、
遺骸は故郷の鋳銭司に葬られています。
「大村神社跡」。
大村神社は大村益次郎を祭神として祀り、
墓所と同じ場所に創建されましたが、
昭和21年に麓の現在地に移転しており、
移転前の鳥居が残されています。
「故兵部大輔贈從三位大村永敏墓」。
大村益次郎の墓。
大村は鋳銭司の村医村田孝益の子に生まれ、
咸宜園の広瀬淡窓や適塾の緒方洪庵に学び、
宇和島藩に招かれて蘭学の講義と翻訳を手がけ、
後に長州藩に仕官しました。
軍制改革を指導し幕長戦争の勝利に貢献。
維新後は新政府に出仕して兵部大輔に任じられ、
新政府軍の軍制改革の中心を担いますが、
上記のように士族らの反感を買って襲撃を受け、
その傷が悪化して大坂の病院で死去しました。
「大村琴子之墓」。
大村の妻琴の墓。
司馬遼太郎の花神ではヒステリー女に描かれ、
大河ドラマでも加賀まりこが演じていた為か、
相当の悪妻イメージが現在もつきまといます。
大村は宇和島や江戸で活動する事になった為、
琴の実家に離縁状を送っていますが、
琴は大村を訪ねて江戸まで押しかけてきて、
江戸で暮らしていたことは知られていません。
大村の死後も鋳銭司で暮らし、
小学校にオルガンを寄付したりするなど、
村の育英事業に賛助したとされ、
明治38年に死去しています。
「大村公神道之碑」。
明治12年の大村没後10年を記念して、
旧大村神社境内に建立された神道碑。
弟子でもある山田顕義の撰文です。
旧大村神社社殿の説明板。
神道碑の後方に社殿があったようです。
旧社殿があった場所。
基礎石等が残されていないか探しましたが、
何も見つけられずでした。
自然に帰るってのはこのような感じですね。
現在の大村神社。
昭和21年に移転した現在の大村神社。
毎年春祭りとして[誕生祭]、
秋祭りの[命日祭]が催されているようです。
幕末ファンの他、医師を目指す人も、
大村神社に参拝に訪れるという。
■関連記事■
・山口県山口市 鋳銭司/大村益次郎関連史跡
大村の誕生地や開業地など。
・東京都千代田区 靖国神社
大村の巨大な銅像が建てられています。
・愛媛県宇和島市 大村益次郎住居跡
宇和島での大村の住居跡。
・大阪市北区 龍海寺/緒方洪庵墓所
洪庵墓所の傍らに右脚が埋められています。