山形県米沢市 米沢藩主上杉家墓所①

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前回行けなかった米沢藩上杉家墓所へ。


米澤藩主上杉家墓所」。
前回はこの門が閉じていました。
3密のどれも当てはまらないので、
自粛する必要もなかったのですが、
当時は猫も杓子もだったから仕方ないかな?


上杉謙信の軍旗「毘の一字」旗と、
懸かり乱れ龍」旗。
毘沙門天の化身と称した謙信は、
「毘の一字」を馬標としていました。
この旗に遭遇した敵は戦慄した事でしょう。
「懸かり乱れ龍」は突撃の合図に使用され、
この旗を見た者も恐怖した事でしょう。
上杉謙信は戦国最強の武将として知られ、
生涯の戦い70戦において、
2度しか敗北しなかったという。
※臼井城の戦いと生野山の戦い。
 共に後北条家との戦いでした。



米沢藩上杉家藩主の御霊屋が一列に並ぶ。
御霊屋は代ごとに左右交互に建てられており、
内側から外側に代を重ねています。

一列に並んだ御霊屋の中央より、
さらに奥に進んだ場所に謙信の御霊屋が。

不識院殿」。
毘沙門天の化身と自他共に称される謙信は、
その死後も上杉家にとって特別な存在で、
遺骸に甲冑を纏わせたうえでに納められ、
その甕にを流し込んで固めたとされます。
これを春日山城内に霊屋を建てて納め、
不識庵として祀っていたという。
※謙信の号は不識庵謙信
その後、上杉家は会津に移封されますが、
謙信の遺骸の入った甕も同じく移動させ、
さらに米沢に移った際も同様に移動して、
米沢城本丸に御堂を建立して安置しました。
明治期の米沢城廃城に伴い現在地に移転。

甕の中に漆で包まれて眠る謙信。
密封が完璧な状態ならばもしかすると・・。
現在の技術ならば非破壊調査も可能でしょうが、
もちろんそれは出来ない相談でしょうね。


覺上院殿」。
初代藩主上杉景勝の御霊屋。
謙信は生涯不犯を貫いていますので、
当然実子はなく養子を貰う事となり、
実姉の子喜平次(景勝)を養子としますが、
後に北条家との同盟締結によって、
北条氏康の子三郎(景虎)も養子となりました。
この2人の養子から後継者を決める事無く、
謙信は急死してしまった為、
両者の家督を巡る争いから御館の乱が発生。
これを勝利した景勝が家督を相続します。
その後は豊臣秀吉に臣従して会津に加増転封。
豊臣政権五大老として重きを成しますが、
秀吉の死後に増長する徳川家康と対峙し、
会津征伐から慶長出羽合戦が勃発。
伊達政宗最上義光と戦っていますが、
関ケ原の戦いで家康が勝利した為に降伏し、
米沢に減転封となっています。
その後は徳川家に臣従して大坂の陣にも参戦。
元和9年(1623)に死去しました。


大上院殿」。
2代藩主上杉定勝の御霊屋。
初代上杉景勝の長男として生まれ、
直江兼続の正室お船の方に養育されます。
※定勝の生母は定勝を生んですぐに死去。
景勝の死去に伴い家督を相続し、
諸法を整備して藩政を確立させました。


上生院殿」。
3代藩主上杉綱勝の御霊屋。
父定勝の死去により幼くして家督を継ぎますが、
19年の治世で継嗣無く死去。
これにより上杉家は無嗣断絶の危機となります。


法林院殿」。
4代藩主上杉綱憲の御霊屋。
高家肝煎吉良義央と2代定勝の娘富姫の長男。
3代綱勝が継嗣なく死去してしまいますが、
保科正之のはからいで末期養子となり、
上杉家の家督を相続しました。
しかしその代償として知行が半減された為、
米沢藩は慢性的な財政難に悩まされます。
綱憲は子弟教育風俗取締りを重視し、
文治政治を行っていますが、
贅沢や実家の吉良家への援助で財政を悪化させ、
家臣からは良く思われていなかったという。
治世中に赤穂浪士討入事件が発生しますが、
知らせを聞いても援軍を送る事はなく、
武門としての上杉家の評判を落としています。


樹徳院殿」。
5代藩主上杉吉憲の御霊屋。
父の4代綱憲の隠居によって家督を相続。
幕府普請で先代より続く財政難に拍車が掛かり、
参勤交代の費用も事欠いていたという。
また弟の上杉勝周に1万石を分与し、
米沢新田藩を立藩しています。

つづく。
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 前回訪問した際は閉まっていました。