①/②
前回行けなかった米沢藩上杉家墓所へ。
「米澤藩主上杉家墓所」。
前回はこの門が閉じていました。
3密のどれも当てはまらないので、
自粛する必要もなかったのですが、
当時は猫も杓子もだったから仕方ないかな?
上杉謙信の軍旗[毘の一字]旗と、
[懸かり乱れ龍]旗。
毘沙門天の化身と称した謙信は、
[毘の一字]を馬標としていました。
この旗に遭遇した敵は戦慄した事でしょう。
[懸かり乱れ龍]は突撃の合図に使用され、
この旗を見た者も恐怖した事でしょう。
上杉謙信は戦国最強の武将として知られ、
生涯の戦い70戦において、
2度しか敗北しなかったという。
※臼井城の戦いと生野山の戦い。
共に後北条家との戦いでした。
米沢藩上杉家藩主の御霊屋が一列に並ぶ。
御霊屋は代ごとに左右交互に建てられ、
内側から外側に代を重ねています。
一列に並んだ御霊屋の中央より、
さらに奥に進んだ場所に謙信の御霊屋が。
「不識院殿」。
毘沙門天の化身と自他共に称される謙信は、
その死後も上杉家にとって特別な存在で、
遺骸に甲冑を纏わせたうえで甕に納められ、
その甕に漆を流し込んで固めたとされます。
これを春日山城内に霊屋を建てて納め、
不識庵として祀っていたという。
※謙信の号は不識庵謙信。
その後、上杉家は会津に移封されますが、
謙信の遺骸の入った甕も同じく移動させ、
さらに米沢に移った際も同様に移動して、
米沢城本丸に御堂を建立して安置しました。
明治期の米沢城廃城に伴い現在地に移転。
甕の中に漆で包まれて眠る謙信。
密封が完璧な状態ならばもしかすると・・。
現在の技術なら非破壊調査も可能ですが、
もちろんそれは出来ない相談でしょう。
「覺上院殿」。
初代藩主上杉景勝の御霊屋。
謙信は生涯不犯を貫いていますので、
当然実子はなく養子を貰う事となり、
実姉の子喜平次(景勝)を養子としますが、
後に北条家との同盟締結によって、
北条氏康の子三郎(景虎)も養子としました。
この2人の養子から後継者を決める事無く、
謙信は急死してしまった為、
両者の家督を巡る争いから御館の乱が発生。
これを勝利した景勝が家督を相続します。
後に豊臣秀吉に臣従して会津に加増転封。
豊臣政権の五大老として重きを成しますが、
秀吉の死後に増長する徳川家康と対峙し、
会津征伐から慶長出羽合戦が勃発。
伊達政宗や最上義光と戦っていますが、
関ケ原の戦いで家康が勝利した為に降伏し、
米沢に減転封となっています。
その後は徳川家に臣従して大坂の陣に参戦。
元和9年(1623)に死去しました。
「大上院殿」。
2代藩主上杉定勝の御霊屋。
初代上杉景勝の長男として生まれ、
直江兼続の正室お船の方に養育されます。
※定勝の生母は定勝を生んですぐに死去。
景勝の死去に伴い家督を相続し、
諸法を整備して藩政を確立させました。
「上生院殿」。
3代藩主上杉綱勝の御霊屋。
父定勝の死去で幼くして家督を継ぎますが、
19年の治世で継嗣無く死去。
これにより無嗣断絶の危機となります。
「法林院殿」。
4代藩主上杉綱憲の御霊屋。
高家肝煎吉良義央と定勝の娘富姫の長男。
3代綱勝が継嗣なく死去してしまいますが、
保科正之のはからいで末期養子となり、
上杉家の家督を相続しました。
しかしその代償として知行が半減された為、
米沢藩は慢性的な財政難に悩まされます。
綱憲は子弟教育や風俗取締りを重視し、
文治政治を行っていますが、
贅沢や吉良家への援助で財政を悪化させ、
家臣からは良く思われていなかったという。
治世中に赤穂浪士討入事件が発生しますが、
知らせを聞いても援軍を送る事はなく、
上杉家の評判を落としています。
「樹徳院殿」。
5代藩主上杉吉憲の御霊屋。
父の4代綱憲の隠居によって家督を相続。
幕府普請で財政難に拍車が掛かり、
参勤交代の費用も事欠いていたという。
また弟の上杉勝周に1万石を分与し、
米沢新田藩を立藩しています。
つづく。
①/②
■関連記事■
・山形県米沢市 米沢城跡①
米沢藩上杉家の居城跡。
・山形県米沢市 林泉寺/上杉家廟所
上杉家子女や新田藩主、重臣達の墓所。
・山形県米沢市 憂国志士雲井龍雄遺蹟
前回訪問した際は閉まっていました。