山形県米沢市 米沢藩主上杉家墓所②

つづき。
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桂徳院殿」。
6代藩主上杉宗憲の御霊屋。
5代上杉綱憲の長男として生まれ、
父の死によって幼年で家督を相続。
新田藩主上杉勝周が後見役となりますが、
僅か22歳で早逝しています。


英徳院殿」。
7代藩主上杉宗房の御霊屋。
5代上杉綱憲の次男。
兄宗憲の早逝によって家督を継ぎますが、
こちらも29歳で早逝しました。


東岳院殿」。
8代藩主上杉重定の御霊屋。
5代上杉綱憲の四男。
兄2人の早逝によって家督を相続。
兄らの代から奉行清野秀佑が実権を牛耳り、
清野の隠居後は重定側近森利真が握ります。
その専横や公私混同が反発を買い、
江戸家老の竹俣当綱らが刺殺。
代わって竹俣による改革が進められ、
重定は多病を理由に隠居しています。


元徳院殿」。
9代藩主上杉治憲(鷹山)の御霊屋。
JFKも尊敬したという名君。
高鍋藩6代秋月種美の次男でしたが、
8代上杉重定の養嫡子となって家督を相続。
上記の竹俣や莅戸善政を重用し、
破綻寸前な藩財政の建て直す為、
自ら模範を示して節約に努めました。
また籍田の礼を行い自ら荒田に鍬を入れ、
養蚕製糸織物製塩製陶等、
様々な産業を奨励。
領内の人口を増加させる為に、
養育手当金などの制度も構築させた他、
藩校興譲館を創設したりしています。
まだ盛りの35歳で隠居していますが、
引き続き領内で藩政に尽力しており、
最晩年まで財政再建に尽くし、
死後の翌年には藩の借財は完済したという。


享徳院殿」。
10代藩主上杉治広の御霊屋。
8代重定の次男として生まれ、
9代治憲の養嫡子となり家督を継ぎますが、
治憲の後見を受けて改革が進められ、
その改革の成果は治広の治世になってから。
しかし中風を患って隠居しており、
その死は治憲の死の翌年でした。

一列に並ぶ藩主の御霊屋より少し下がって、
藩主世子の御霊屋がひとつだけあります。

瓊林院殿」。
10代治広の継嗣上杉顕考の御霊屋。
9代治憲と側室お豊の方の子で、
10代治広の養嫡子となっていましたが、
疱瘡を患って19歳で死去。
特別に藩主墓所に葬られています。


俊徳院殿」。
11代藩主上杉斉定の御霊屋。
8代上杉重定の長男上杉勝熙の子に生まれ、
顕考の死去で10代治広の養嫡子となり、
治広の隠居に伴い家督を継ぎました。
9代治憲の改革が成功して借財が完済され、
その改革を受け継いで善政を尽くし、
天保の飢饉で餓死者を出さなかったという。

12代藩主上杉斉憲の時代に幕末を迎え、
軍制の西洋化などを成功させており、
幕府より3万7000石の加増を受けました。
旧恩により会津藩の仲介に努めますが、
これが叶わずに奥羽越列藩同盟を結成。
斉憲は仙台藩伊達慶邦と共に盟主となり、
新政府軍と戦いますが敗れて降伏。
斉憲は隠居して4万石の減封となります。
廃藩置県後に上杉家は東京に居住。
斉憲以降の墓所は東京の興禅寺


正二位上杉茂憲公瘞髪碑
13代藩主上杉茂憲の遺髪墓。
12代斉憲の隠居に伴って家督を継ぎ、
版籍奉還により米沢藩知事となっており、
廃藩置県後は英国に自費留学。
帰国後に沖縄県令に就任して善政を尽くし、
全島を巡視して政府に改革を訴えますが、
受け入れられずに免官されています。
元老院議官貴族院議員などを務め、
明治29年に米沢に居住。
米沢の教育振興、産業発展に力を注ぎ、
大正8年に死去して興禅寺に葬られ、
この歴代墓所に遺髪碑が建立されました。

墓所を出て法音寺へ。

法音寺」。
墓所の前にある米沢藩主上杉家の菩提寺。
上杉家の菩提寺は林泉寺ですが、
上杉謙信真言密教に帰依していた為、
遺骸は真言宗の法音寺に祀らせました。
初代藩主上杉景勝もこれに倣い、
遺言にて法音寺に導師を務めさせた為、
以後の藩主も同様に法音寺が導師を務め、
これにより藩主の菩提寺は法音寺、
その他の一族の菩提寺が林泉寺となります。
藩政時代は米沢城二ノ丸にありましたが、
明治3年に現在地に移築され、
謙信の御廟にあった位牌毘沙門天像等は、
法音寺に移されて寺宝となっています。

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 前回訪問した際は閉まっていました。

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