大阪府堺市 法雲寺/北条氏燕墓所

法雲寺黄檗宗の中本山格の寺院
その前身は真言宗長安寺でしたが、
狭山池の堤防の決壊で流されてしまいます。
後に曹洞宗の僧宗月観音像を掘り出し、
草庵を建立して再興。
宗月は黄檗宗の僧慧極に寺を譲り、
慧極は寺名を法雲寺に改めました。

その後、狭山藩5代藩主北条氏朝が、
慧極を師と仰ぎ黄檗宗に帰依。
以後は北条家の菩提寺となります。


本堂(大殿)」。
本尊は釈迦如来ですが、
背後に3333体の仏が並び、
その全てが本尊となっているようです。
かつて掘り出された観音像は、
秘仏として拝観はできません。
法雲寺はツツジが有名なようですが、
訪問時は季節ではありませんでした。

本堂裏の北条家墓所へ。

北条家墓所」。
北条家の歴代墓所は渋谷区の祥雲寺ですが、
11代北条氏燕のみ法雲寺が墓所。
右奥の五輪塔は「壽仙院松嶽妙操大姉」。
氏燕の奥方でしょうか?
左手前は「北条兼次郎之墓」。
分家のようですがよくわかりません。


舊狭山藩主従四位北条氏燕之墓」。
狭山藩11代藩主北条氏燕の墓。
一門北条氏迪の次男として生まれ、
10代北条氏久の養嫡子となり、
氏久の隠居に伴い家督を相続しました。
藩校簡修館や村々の寺子屋を設置して、
領内の人材育成を推進。
また軍制改革を進めて農兵隊を組織し、
幕府より海岸警衛を命じられています。
しかしこれらの出費が嵩み、
財政は破綻寸前に陥りました。

天誅組の変では中山忠光らの訪問を受け、
挙兵へに参加を要請されますが、
氏燕は急病と偽って面会を拒み、
家老の朝比奈縫殿が代わりに応接。
忠光は朝比奈にも挙兵参加を命じた為、
とりあえずゲベール銃等の武器を渡し、
天皇親征には必ず加わると回答しました。
※この時には既に氏燕は隠居の身。
後に狭山藩は天誅組追討にも参加しており、
別の意味で加わった事になります。

■関連記事■
大阪府狭山市 狭山陣屋跡
 狭山藩北条家の陣屋跡。
奈良県五條市 五條代官所跡
 天誅組が襲った幕府代官所跡。