福岡県柳川市 福厳寺/柳河藩立花家墓所①

①/

福厳寺柳河藩立花家の菩提寺。
大友宗麟の宿老であった戸次鑑連が、
継母の養孝院を糟屋の梅岳寺に葬り、
寺名を養孝院したのが創建とされ、
立花家が柳河へ転封された際に、
現在地に移って梅岳寺に改められます。

立花家は関ケ原の戦い西軍として戦い、
これによって改易されており、
柳河には田中吉政が入封しますが、
このときに梅岳寺は廃寺となり、
敷地は家臣らの屋敷となったという。
後に立花家は柳河に戻り梅岳寺も再興。
2代立花忠茂曹洞宗から黄檗宗に改め、
梅岳山福厳寺と改称されました。


本堂」。
瓦葺入母屋造の本堂
本尊は釈迦如来像で、
柳河藩歴代藩主の位牌及び肖像画が、
安置されているようです。
近年改修されて綺麗になっている模様。
境内は黄檗宗的な感じはあまりなく、
微かに2階建ての鐘鼓楼が、
なんとなく黄檗宗的の香りがする程度?

本堂向かって左手より、
裏側にある立花家墓所へ。

立花家墓所」。
3棟の御霊屋がコの字で建っており、
その中に笠塔婆型の墓石が並んでいます。
戸次鑑連と初代立花宗茂の扉のみ開けられ、
他は閉じられていましたので、
2代以降は格子の隙間より撮影しました。


福厳寺殿梅岳道雪大居士」。
立花道雪(戸次鑑連)の墓。
大友家の支流戸次家当主戸次親家の嫡男で、
父の死に伴い家督を継いで大友義鑑に仕え、
後継者争いでは嫡男大友義鎮(宗麟)を推し、
二階崩れの変を経て宗麟が当主となると、
これを盛り立てました。
大内家を滅ぼした毛利家龍造寺家と戦い、
自らは生涯無敗を誇っていたという。
しかし耳川の戦いで大友家が大敗を喫し、
以後の大友家は衰退するに至りますが、
最後まで大友家の忠誠を尽くし、
陣中で病に罹り死去しています。
道雪は名跡立花家を継承しますが、
宗麟は道雪に立花を名乗らせることを嫌い、
立花家は娘の誾千代が相続。
※先代立花鑑載は2度も離反しており、
 立花を名乗る事で道雪が離反するのを、
 最も恐れたとされています。

高橋紹運の長男高橋統虎(後の宗茂)を、
頼み込んで婿養子として立花家を継がせ、
道雪自身は立花を名乗らなかったという。


大圓院殿松蔭宗茂大居士」。
初代藩主立花宗茂の墓。
大友家の重臣高橋紹運の長男に生まれ、
その力量を見込んだ道雪に、
婿養子に欲しいと紹運は何度も頼まれ、
最初は断っていましたが、
頼み込まれて断る事が出来ずに、
仕方なく道雪の養子に出しました。
※高橋家は次男統増(後の立花直次)が相続。
道雪の一人娘誾千代を妻とし、
以後は養父道雪、実父紹運と共に、
大友家の主要な戦いに参加しています。
島津家が筑前国に侵攻し、
実父紹運の守る岩屋城が落城した際は、
※紹運以下700余名全員が討死。
宗茂も立花山城に籠城。
島津勢約4万の攻撃に徹底抗戦し、
攻めあぐねた島津勢は撤退するに至り、
これを追撃して大打撃を与えています。
その後の豊臣秀吉九州征伐では、
抜群の軍功を挙げて豊臣直参となり、
柳河13万石を与えられました。
佐々成政領の肥後で一向一揆が起こると、
計略や戦術を駆使してこれを平定。
小田原征伐にも従軍しており、
秀吉は本多忠勝と共に東西無双と評して、
諸大名の前でその武を称えています。
朝鮮出兵でも武功を挙げでいますが、
秀吉の死去により徹底。
関ケ原の戦いでは西軍として参加し、
京極高次の守る大津城を落城させますが、
この為に本戦には間に合わず、
西軍は1日にして大敗北を喫し、
仕方なく大坂城で徹底抗戦を主張しますが、
総大将の毛利輝元徳川家康に恭順した為、
仕方なく柳河へ戻り柳川城で籠城し、
黒田如水加藤清正の説得で降伏します。
その後改易処分となり、
各地を流浪した後に本多忠勝に推挙され、
将軍徳川秀忠御伽衆となり大名に復帰。
大坂夏の陣では秀忠の軍師となり、
数々の戦況予測を的中させました。
島原の乱にも出陣しており、
ここでも戦況予測を的中させて、
諸大名に武神再来と嘆賞されたという。
墓は東京都練馬区の廣徳寺にもあります。


別峯院殿忠巌好雪大居士」。
2代藩主立花忠茂の墓。
初代宗茂の弟立花直次の四男として生まれ、
実子のいない宗茂の養子となります。
元服後は父宗茂が御伽衆を務め、
自領に帰る事が出来なかった為、
藩政に携わる事となり、
島原の乱には宗茂と共に参戦しており、
その後、宗茂の隠居に伴い家督を相続。
菩提寺の梅岳寺を黄檗宗に改宗し、
梅岳山福厳寺と改めています。

3代立花鑑虎、4代立花鑑任の墓は、
みやま市山川町の霊明寺跡(廃寺)です。

つづく。
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