高傳寺には龍造寺家、鍋島家墓所の他、
佐賀七賢人のひとり副島種臣と、
その兄の枝吉神陽の墓があります。
「枝吉家墓所」。
枝吉家は代々槍術師範を務める家柄で、
足軽頭の身分であったとされますが、
2人の父枝吉南濠は国学者であったという。
「伯爵福嶋種臣先生墓」。
佐賀藩士枝吉南濠の次男として生まれ、
同藩士副島利忠の養子となりました。
父や兄から国学や勤皇思想を学び、
藩校弘道館で兄と共に義祭同盟を結成。
後に京都で国学者らに影響を受けた後、
帰国して佐賀藩を討幕に導こうとしますが、
兄と共に謹慎処分となっています。
その後許されて弘道館教諭となり、
明治維新後は参与兼制度事務局判事に就任。
福岡孝弟と共に「政体書」を起草しました。
後に外務卿となり諸事件を担当しますが、
明治六年政変で下野し、清国を旅行した後、
宮内省に出仕して侍講兼侍講局総裁に就任。
後に宮中顧問官、枢密院副議長を歴任し、
第1次松方内閣の内務大臣となっています。
明治38年、死去。
青山霊園にも墓があります。
「贈従四位子枝吉經種」。
枝吉神陽の墓。
枝吉南濠の長男として生まれ、
幼児期より神童と称されていたという。
藩校弘道館や昌平黌に学び、
早くから儒教や葉隠の思想を否定しており、
国学や勤皇の思想を学ぶべきと説き、
義祭同盟の発起人となっていますが、
藩論を討幕に向かわせるように図り、
これが退けられ謹慎の処分を受けました。
文久元年にコレラで死去。
「神陽先生神道碑銘」。
枝吉神陽の顕彰碑。
大隈重信らの発起で建てられたもの。
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