長崎は唯一の対外貿易港であった為、
九州13諸藩と長州藩は蔵屋敷を設置し、
※福岡藩、佐賀藩、熊本藩、対馬藩、
平戸藩、小倉藩、薩摩藩、久留米藩、
柳河藩、島原藩、唐津藩、大村藩、
五島藩の13藩。
各種物産の集積所とした他に、
海外及び上方、江戸等の情報も入った為、
情報収集の拠点としても使われました。
長崎市街(長州藩長崎蔵屋敷跡の場所)
「長崎県市町村職員共済会館」。
寛政11年(1799)に設置された蔵屋敷跡で、
県の市町村職員共済会館となっています。
各藩の蔵屋敷には役人が常駐するものと、
蘭船入港の時期だけ駐在するものがあり、
長州藩の蔵屋敷は後者だったようで、
この期間だけ「聞役」と呼ばれる役人が、
長州藩から派遣されていました。
聞役は長崎奉行の指示を伝達し、
情報収集や交換、貿易品の調達などを行い、
今でいう大使のようなものだったようです。
「巌流坂」。
坂道の挟んだ南側は小倉藩の蔵屋敷の跡で、
この坂道は藩境の関門海峡になぞらえられ、
海峡に巌流島が浮かんでいた事から、
巌流坂と呼ばれていたようです。
「詩儒吉村迂齋遺跡(左)」、
「近代活版と本木昌造(中央)」、
「新町活版所跡(右)」。
巌流坂の途中にある碑群。
長州藩蔵屋敷の御用達は吉村家が務め、
代々蔵屋敷敷地内に居住していました。
上記のように長州藩の聞役は、
蘭船入港時以外は国許に帰還していますが、
その期間の留守居役も務めています。
※留守居役は正式には長崎御屋代という。
吉村迂斎は幕末期の吉村家当主で、
長崎の唐人らと親しく交流して、
詩文、書道、絵画、音曲などを嗜み、
同聲社(迂斎塾)を開き漢学を教えたという。
元治元年の禁門の変の後、
幕府は各地の長州藩邸を没収し、
長州藩蔵屋敷も長崎奉行により没収。
※受取役は大村藩。
迂斎は捕らえられた後に長州送りとなり、
蔵屋敷は破壊されてしまいます。
吉村が長崎に戻ったのは明治維新後で、
長州藩蔵屋敷は復活しますが、
場所はここより南西側の海岸通りに移転。
吉村も蔵屋敷内に居住しました。
この場所の長州藩蔵屋敷跡地には、
「語学所(後の済美館)」が移転しています。
明治2年に「広運館」と改称した後、
翌年に長崎奉行西役所跡に移転。
その跡地と校舎を本木昌造が買い取り、
※幕府通訳、活版印刷の先駆者。
新街私塾、新塾活版所及び、
新町活字製造所が開かれて、
近代活版印刷発祥之地となりました。
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長州藩の大坂蔵屋敷跡。
・長崎県長崎市 長崎奉行所立山役所跡
長崎奉行所の役所のひとつ。
・長崎県長崎市 長崎奉行所西役所跡
長崎奉行所の役所のひとつ。