佐世保市針尾支所の北側にある墓地に、
楠本端山らが眠る楠本家の墓地があります。
「楠本家墓地土墳群七基」。
国道202号線沿いにあります。
端山は大橋訥庵に儒教墓について教えを乞い、
その知識を基に自らの墓を建てたとされ、
一族や門弟もそれに倣って儒教墓にしたという。
「端山先生楠本伯子之墓(右)」、
「紉蘭近藤氏之墓(左)」。
楠本端山と妻の近藤氏の墓。
端山の墓は土墳の前に墓標が建てられ、
周囲に斎垣、前面に石門が配され、
典型的な儒教式の墓となっています。
「楠本碩水先生之墓(右)」、
「浦上氏仙子之墓(左)」。
端山の弟楠本碩水と妻仙子の墓。
端山の墓の前方にありますが、
周りはコンクリートで整地されています。
碩水は端山にも劣らぬ儒学者で、
平戸藩藩校維新館の助教を務めていますが、
明治3年に針尾島で隠遁しており、
後に端山と共に鳳鳴書院を開きました。
しかし端山は開校の翌年に死去してしまい、
鳳鳴書院は碩水が引き継いで発展。
明治30年の閉鎖まで教育に尽くしています。
大正5年、死去。
端山の墓の後方は一族の墓。
「山田節斎先生之墓」。
端山の墓の後ろ側にある山田節斎の墓。
碩水と同じく端山の弟のようです。
「松陽先生楠本君之墓」。
こちらも端山の弟楠本松陽の墓。
「如海楠本君正廉墓」。
上記松陽の長男楠本正廉の墓 。
「七主子楠本正徹墓」。
楠本正徹は松陽の次男として生まれ、
幼き頃より叔父の端山、碩水に学び、
軍人を志して14歳で上京しますが、
近眼であった為に軍人の道を諦めています。
軍人以外の道で報国の志を求めて勉学に励み、
ロシア語とシナ語を習得し、
日清戦争には軍属として参加。
後の三国干渉でのロシアのやり口に憤慨し、
内田良平と共にウラジオストクに渡航して、
極東情勢の調査に努めました。
さらに露清韓国境を調査する為、
単身で地理情勢について調査していますが、
帰還後に凍傷を悪化させて死去。
「海山楠先生墓」。
楠本海山は端山の諸長子として生まれ、
端山の死後は碩水に育てられています。
鳳鳴書院で叔父に学んだ後、
各地を遊学して当時一流の儒学者と交わり、
帰国後は碩水の編纂を手伝いました。
碩水の死後はその口述を編録し、
「聖学要領」を出版しています。
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