愛知県西尾市 長圓寺(板倉家墓所)②

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まずは備中松山藩板倉宗家の歴代藩主。


松雲院殿秀峯源俊大居士(左)」、
瑤樹院殿寶林淸月大姉(右)」。
板倉宗家2代当主、
関宿藩初代藩主板倉重宗とその室の墓。
初代板倉勝重の長男として生まれ、
幼い頃より徳川秀忠に近侍しました。
関ヶ原の戦い大坂の陣でも秀忠に従い、
元和6年(1620)には京都所司代に就任。
父勝重が死後に遺領を弟板倉重昌と分割し、
深溝藩初代。福島藩板倉家藩祖。
板倉宗家の家督を継ぎました。
30年以上京都所司代に在籍しており、
父と共に名奉行として称えられてました。
幕政から退くと関宿藩を立藩しますが、
まもなく病に倒れて死去しています。


恵日院殿徳峯源清大居士(右)」、
心性院殿〇寶貞鑑大禅定尼(左)」。
板倉宗家3代当主、
関宿藩2代藩主板倉重郷とその室の墓。
初代藩主重宗の長男として生まれ、
父重宗の死去に伴い家督を相続します。
幕政で奏者番寺社奉行を務めますが、
僅か4年の治世で病死しました。


天祐院殿南室悠山大居士」。
板倉宗家4代当主、関宿藩3代、
伊勢亀山藩初代藩主板倉重常の墓。
関宿藩2代重郷の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
伊勢亀山藩に5千石で加増転封となり、
城及び城下町の整備や新田開発を行い、
善政に尽くしたとされていますが、
領内で凶作が続いて藩財政は悪化しました。
26年の治世の後に隠居し、
貞享5年で死去してます。


徳雲院殿利山源貞大居士」。
板倉宗家5代当主、
伊勢亀山藩2代藩主板倉重冬の墓。
一族の板倉重大の長男として生まれますが、
※藩祖板倉勝重の三男。
伊勢亀山藩初代重常の養嫡子となり、
重常の隠居によって家督を継ぎました。
幕政では奏者番に任命されていますが、
20年の治世の後に死去しています。


鐵心院殿悟雲源旨大居士」
板倉宗家6代当主、伊勢亀山藩3代、
鳥羽藩初代、伊勢亀山藩初代(再)板倉重治の墓。
伊勢亀山藩2代板倉重冬の長男として生まれ、
父重冬の死去に伴い家督を相続。
鳥羽藩に移封となっていますが、
7年後に再び亀山藩に戻されました。
この数度の転封で財政は困窮したとされ、
28歳の若さで病死しています。


圓乗院殿無山元承大居士」。
板倉宗家7代当主、伊勢亀山藩2代(再)、
備中松山藩初代藩主板倉勝澄の墓。
伊勢亀山藩初代(再)重治の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
生来体が弱く病気がちであった為、
東海道の要衝伊勢亀山藩の統治に堪えないと、
備中松山藩に移封されています。
しかしこの移封を最後に板倉宗家は定着し、
廃藩まで備中松山藩の藩主家として続きました。
勝澄も早死することなく藩政に尽くし、
学問所を設立するなど子弟教育を推奨。
藩政の基礎を創り上げた他、
実子も多く残しています。


大光院殿普照源海大居士(右)」、
寶勝院殿賢室壽貞大姉(左)」。
板倉宗家8代当主、
備中松山藩2代藩主板倉勝武とその室の墓。
備中松山藩初代勝澄の長男として生まれ、
父の隠居により家督を相続。
幕府より奏者番に任命されていますが、
父勝澄の死の同年に死去してます。


康長院殿英山源哲大居士(右)」、
智芳院殿瑶滇清函大姉(左)」。
板倉宗家9代当主、
備中松山藩3代藩主板倉勝従とその室の墓。
初代勝澄の三男として生まれ、
兄で先代藩主の勝武の実子が早世していた為、
勝武の死去に伴い末期養子として家督を相続。
9年の治世の後に死去しました。


義正院殿天忠源然大居士(左)」、
江山院殿寶月玉照大姉(右)」。
板倉宗家10代当主、
備中松山藩4代藩主板倉勝政とその室の墓。
初代勝澄の七男として生まれ、
兄で先代の勝従の末期養子として家督を相続。
幕政では奏者番や寺社奉行を務め、
藩政では藩校有終館を創設しています。


大洞院殿雲山源龍大居士」。
板倉宗家11代当主、
備中松山藩5代藩主板倉勝晙の墓。
4代勝政の四男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しますが、
僅か3年で死去しています。
死因は熱中症という。


寛隆院殿忠峯源義大居士」。
板倉宗家12代当主、
備中松山藩6代藩主板倉勝職の墓。
5代勝晙の長男として生まれ、
父がの早逝によって家督を相続しました。
贅沢を重ねて財政を悪化させ暗君とされます。


樹功院殿正四位耆徳松叟大居士
 貞正院殿蘭寶慧光大姉
」。
板倉宗家13代当主、
備中松山藩7代藩主板倉勝静とその室の墓。
白河藩藩主松平定永の八男として生まれ、
6代勝職の婿養子として迎えられて、
養父勝職の隠居に伴いの家督を相続しました。
田方谷を登用して藩校有終館の学頭とし、
徹底した倹約によって財政を改善。
殖産興業を振興して財源も蓄積しており、
軍政改革も行っています。
奏者番兼寺社奉行に任じられましたが、
井伊直弼による安政の大獄で罷免。
桜田門外の変後に奏者番兼寺社奉行に復帰し、
翌年には老中に昇格して幕政を支え、
慶応2年には老中首座会計総裁となりました。
鳥羽伏見の戦い後は徳川慶喜らと大坂を脱出し、
国許の備中松山藩は新政府に恭順。
勝静も恭順して宇都宮藩に預けられましたが、
宇都宮戦争旧幕府軍に解放され、
奥羽越列藩同盟の参謀となっています。
勝静は箱館まで戦っていますが、
国許の備中松山藩によって連れ戻されて自首。
安中藩に預けられて終身禁固刑となりました。
後に許されて上野東照宮の祀官を務め、
明治22年に死去しています。


中興院殿黍山源昌大居士
 清松院殿寒月貞操大姉
」。
板倉宗家14代当主、
備中松山藩8代藩主板倉勝弼とその妻の墓。
一族の板倉勝喬の四男として生まれ、
※4代板倉勝政の十一男。
7代勝静が新政府に反抗した為、
執政山田方谷が勝弼を新藩主に迎えました。
勝静の自首後に正式に家督相続が認められ、
松山を高梁と改名して高梁藩とし、
高梁藩の知藩事に就任していますが、
廃藩置県で免官となっています。
明治29年には上野東照宮社司となりますが、
同年に死去しました。

次は福島藩板倉家
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