鵤は推古天皇が聖徳太子に与えた荘園で、
太子が斑鳩宮から移住して、
政庁と寺院を建立した場所とされます。
その寺院が現在の斑鳩寺とされており、
七堂伽藍と坊庵を抱える大寺院でしたが、
戦国時代の戦乱で伽羅は焼失してしまい、
後に天台宗に改宗して復興し、
江戸時代には御朱印寺となっていました。
その斑鳩寺の門前町であった為か、
西国街道の宿場町にも指定されており、
旅籠や茶屋が軒を連ねていたようです。
太子町鵤周辺。緑の線が西国街道で、
青い線が斑鳩寺への参道。
青くぼかした辺りが鵤宿跡です。
「鵤宿跡」。
斑鳩寺から500m程度南に街道が走り、
その周辺が宿場となっていましたが、
問屋場が置かれる事は無く、
人足や馬が調達出来なかったという。
この為に宿であっても驛ではなく、
不便な要素も抱えていたようです。
「鵤本陣遺跡」。
本陣を務めた五百井家邸の跡。
地図のように本陣は街道からはずれており、
北側の西光寺の参道沿いにあります。
つまり大名行列が本陣に行く場合は、
街道から大きく外れて向かわねばならず、
これも不便な要素となっていました。
現在は新町公会堂となっており、
小さな石碑が設置されています。
とはいえわざわざ参拝する価値のある寺で、
ついでに宿泊する大名も多かったという。
特に長州藩毛利家は江戸中期から6回も、
参勤交代でこの五百井邸に宿泊しており、
定宿と言っても過言はありません。
この五百井家邸は安政元年の地震と、
安政4年の台風で建物が被害を受けた為に、
建て替えられる際は西国街道沿いに移転。
心機一転するものの参勤交代が緩和され、
移転再建費を捻出できなかったようです。
斑鳩寺にも行ってみます。
「斑鳩寺」。
上記したように聖徳太子開基の寺。
推古天皇14年(606)に太子は推古天皇に、
法華経と勝鬘経について講義しました。
この話を推古天皇は大変喜んだようで、
揖保郡の水田百町を太子に与えた為、
太子はそこを鵤荘と名付けて、
この斑鳩寺を建立しています。
その後、斑鳩寺は法隆寺の別当となり、
大寺院となって隆盛を極めていましたが、
尼子晴久の播磨侵攻で伽羅の殆どを焼失。
後に円勝寺の円光院昌仙により再建され、
天台宗に改宗されました。
「三重塔」。
永禄8年(1565)に再建された三重塔。
再建後の状態でそのまま残る唯一の建物。
国指定重要文化財。
「聖徳殿」。
聖徳太子十六歳孝養像を安置する聖徳殿。
寛文5年(1665)に再建されたもので、
背後に中殿、後殿が造築されています。
「講堂」。
本尊の3体の丈六仏を安置する講堂。
※釈迦如来、薬師如来、如意輪観音、
3体とも国指定重要文化財。
他の寺院でいう本堂にあたります。
不便な要素の多い鵤宿ですが、
それでも諸大名が宿泊したのは、
斑鳩寺と聖徳太子の御加護でしょう。
本陣を寺から離れて再建した為、
御加護からの離れてしまったのか、
参勤交代が無くなってしまいます。
直接の原因は文久の改革の為ですが、
なんだか関係あるように感じてしまうのが、
日本人なのではないでしょうか?
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