吉見浦は古代からの港町であったとされ、
神功皇后がこの浦の風景を見て、
「良き眺め」と言った事から、
吉見と名付けられたと伝承されています。
塩造りが盛んであったようで、
浦の北側に広がる永田の平地には、
中世より塩田が広がっていたという。
下関市吉見周辺。
左右が小高い岬に囲まれており、
※左側が網代山、右側が串の山。
浦から北及び北東に平地が伸びでいます。
「吉見浦」。
鰆や鯛などの魚やサザエ、わかめ漁が行われ、
漁港の他にも蓋井島への渡船場や、
水産大学校、海上自衛隊基地があります。
「加茂島」。
吉見浦に浮かぶ美しい小島。
三つのコブが特徴です。
神功皇后が船を率いて帰国し、
浜に財宝を埋めてたという伝説があり、
その船の帆柱が岩になったという。
これか仮に船であったならば、
黒船も陵駕する規模ですね。
昔は「帆柱瀬」と呼ばれていたようです。
「吉見本町の街並み」。
古い家屋があちこちに建っており、
昔は相当栄えていた様子が伺えます。
「古代の塩田跡」。
吉見浦北側の永田郷の田園地帯は、
古代、中世の塩田であったという。
近世以降は海面が下がったのか、
永田本町あたりが塩田となっていたようで、
明治、大正、昭和時代も塩造りが続けられ、
昭和34年まで続けられていました。
現在の近世の塩田跡は住宅地となっており、
その面影は全くありません。
嘉永2年、吉田松陰は北浦の海防視察の際、
蓋井島を視察した後に吉母に向おうとしますが、
逆潮の為に吉見浦に上陸して一泊しました。
この際に吉見浦と相隣して海老屋浦があり、
吉見浦の戸数が140~150戸で、
海老屋浦の戸数が50戸であるとしています。
この海老屋浦がよくわからないのですが、
たぶん吉見古宿町あたりではないでしょうか?
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