京都府京丹後市 常立寺/峰山藩京極家墓所

常立寺は京丹後市峰山にある浄土宗の寺院。
峰山藩の設立時に近隣にあった光明寺を、
現在地へ移して藩主菩提寺とした寺で、
3代京極高明が常立寺に改称しました。


「本堂」。
本堂の建立や再建については不明ですが、
指定文化財ではないようなので、
それ程古くはないと思われますが、
絵画の寺宝は絹本著色不動明王像
絹本著色釈迦十六善神像
紙本著色京極家歴代藩主肖像画と豊富。
常立寺が移転して菩提寺となった際、
真言宗から浄土宗に転宗しており、
現在は総本山智恩院の末寺となっています。

境内に丹後ちりめんの祖の墓もありました。

禰譽淨専」。
丹後ちりめんの祖のひとり絹屋佐平治の墓。
峰山の絹屋佐平治は加悦の手米屋小右衛門
三河内の山本屋佐兵衛
後野の木綿屋六右衛門の3人と協力し、
ちりめん撚糸技術を京都の西陣から導入し、
地域の絹織物産業を発展させました。
峰山藩は丹後ちりめんで潤ったようで、
この功績を藩主京極高長の賞され、
自筆の御召縮緬ちりめんや暖簾を与えられ、
名字帯刀を許されたようで、
以後は森田治郎兵衛を名乗りました。

本堂裏手にある京極家の墓所へ。

京極家墓所」。
墓所は薬医門築地塀で仕切られています。
上段、中段、下段に分かれており、
上段に江戸期の藩主の墓、
中段に明治以降の当主と奥方の墓、
下段に縁者らの墓がありました。


上段にある藩主の墓所。
初代から11代藩主の墓があります。


安泰院殿雪峯道山大居士 霊儀」。
初代藩主京極高通の墓。
京極高吉の娘婿朽木宣綱の次男に生まれ、
母方の叔父京極高知の養子となり、
養父高知の遺領のうち1万石を分与され、
旧領を含めて1万3千石で峰山藩を立藩。
44年間の治世で藩政の基礎を作りますが、
水口在番の在任中に死去しています。


常立院殿典膳即然誉春山道栄居士 神儀」。
2代藩主京極高供の墓。
初代高通の長男として生まれ
父高通の死去に伴い家督を相続し、
水口在番を代わって務めました。
19年の藩主在任の後に死去。


智宏院殿前典膳即仁譽
 勇叟道意大居士 神儀」。
3代京極高明の墓。
2代高供の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
25年の治世の後に病気を理由に隠居。
剃髪して道意と称して余生を過ごし、
その27年後に死去しています。


隆源院殿前典膳即天譽
 碩含道倫大居士(左)」、
源寥院殿廓譽常光道仙大居士 神儀(右)」。
4代藩主京極高之と5代藩主京極高長の墓。
高之の墓はなんと石燈籠
多分破損した為に代用したと思われます。
高之は3代高明の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
書画に秀でた藩主であったという
高長は棚倉藩3代内藤弌信の三男に生まれ、
※弌信は後に村上藩に転封。
4代高之の養嫡子となり、
養父の死去に伴い家督を相続。
42年の治世の後に隠居しています。


謙徳院殿明譽高久道徴大居士 神儀」。
6代藩主京極高久の墓。
峰山藩京極家分家の旗本京極高庭の四男で、
5代高長の養嫡子となり、
養父高長の隠居に伴い家督を相続。
若年寄に就任し寛政の改革に参加しました。


廣善院殿結譽英叟道俊大居士 神儀」。
7代藩主京極高備の墓。
6代高久の長男として生まれ。
父が若年寄となって幕政に関わった為に、
峰山藩政を父に代って取り仕切りましたが、
父の死去に伴い家督を継ぐと、
同じく幕政に大きく関与しました。
24年の治世の後に隠居しましたが、
次代、次々代が先んじて死去しています。


徳彰院殿興譽和順道融大居士 神儀」。
8代藩主京極高倍の墓。
7代高備の五男として生まれ、
兄らが早世や他家へ養子に言った為、
嫡子となって父の隠居で家督を継ぎますが、
僅か1年で病死してしまいました。


教善院殿巍譽光赫道樹大居士 神儀」。
9代藩主京極高鎮の墓。
7代高備の七男として生まれ、
兄の高倍が継嗣無く病死した為、
末期養子となって家督を相続しますが、
僅か半年後に病死しています。


當徳院殿行譽高景道完大居士 神儀」。
10代藩主京極高景の墓。
島原藩2代松平忠馮の六男として生まれ、
9代高鎮が早逝した為に末期養子となり、
峰山藩の家督を継ぎました。
29年の治世は天保の飢饉等で多難を極め、
財政は逼迫していたという。


正五位子爵京極高富之墓(右)」、
京極正子之墓(左)」。
11代藩主及び13代当主京極高富と、
その妻京極正子の墓。
高富は10代高景の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
天誅組の変生野の変で藩兵を出動させ、
幕末期に佐幕派として功を挙げ、
第二次長州征討にも四国勢を取り締り、
松山に陣を構えています。
その後は国内事務取扱陸軍事務取扱
若年寄兼海軍奉行を歴任しますが、
慶応4年閏4月15日に新政府に恭順。
一時謹慎を命じられました。
その後、謹慎を解かれて隠居しますが、
明治8年に当主京極高陳が隠居し、
再び家督を相続して13代当主となり、
明治22年に死去しています。

12代京極高陳の墓はありません。
彼は明治9年に隠居した後、
明治14年に峰山京極家から離籍しており、
その後の消息はよくわかりません。
明治26年に死去したとされていますが、
これは14代高致の没年のようです。

参道石段沿いの以後の当主と奥方?の墓。

右から、
圓諦院殿實誉一乗道賢大居士」、
涼池院殿心譽明鏡貞操大姉」、
慈光院殿慶譽念月榮壽大姉」、
正五位子爵京極高致之墓」、
従三位子爵京極高賴之墓」、
従四位子爵京極高鋭之墓」、
京極典子之墓」。
7代高備の長男京極高寧?、奥方2人、
14代当主京極高致、15代当主京極高賴
16代当主京極高鋭と妻京極典子の墓。
明治以降の当主らの墓です。
峰山藩京極家は廃藩後は子爵家となり、
16代高鋭の代に華族制は廃止されますが、
現在も家は続いているようです。

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