三重県四日市市 四日市宿跡

四日市宿東海道の43番目の宿場。
古くから港町として栄えていた場所で、
江戸時代には幕府天領となっており、
代官所も置かれていました。


東海道五十三次之内 四日市」。
歌川広重東海道五十三次の浮世絵。
強風に葦が靡き合羽の裾が翻す旅人と、
飛ばされた笠を追う旅人が描かれています。
これは四日市宿北側の三滝川辺りの様子で、
動きのある秀作とされてはいますが、
宿場の様子は描かれていません。

柳通り(国道164)より東海道を北上。

四日市宿跡」。
現在の街道筋は市街地となっている為、
その面影は皆無のようです。


黒川本陣跡」。
二番本陣を務めた黒川彦兵衛家の跡地で、
現在は黒川農薬商会が建っています。
名字が一緒ですので子孫の経営でしょうか?


清水本陣跡」。
札の辻北西の駐車場となっている場所が、
一番本陣を務めた清水太兵衛家の跡地。
この辺りが一番賑わっていた場所ですが、
空襲で全て焼失してしまったようです。

北上すると脇本陣帯や跡がありますが、
本陣跡と同じく碑や標識等はなく、
間違えて隣の建物を撮影してしまったので、
脇本陣の写真は無しです。
更に進むと三滝川に至りますが、
遺構は全くありませんでした。
仕方なく柳通りまで戻って南側へ。

少し右に曲がる道を進むと、
すぐに道標が現れます。
ここで東海道は途切れており、
国道1号線の先で復活しています。


このようになっていたのですね。

四日市宿は東海道を代表する大宿。
天保14年(1843)には人口7114人、
家数1811棟、本陣2、脇本陣1、
旅籠は98軒もあったという。
東隣は42番目の宿場である桑名宿ですが、
その次の宮宿十里の渡しで繋がり、
桑名宿を飛び越える事が出来たようです。

安政7年3月3日。
井伊直弼桜田門外で仕留めた桜田烈士は、
ある者は討死し、ある者は負傷し切腹
ある者は捕縛されていますが、
襲撃の首謀者である金子孫二郎は、
有村雄助佐藤鉄三郎らと共にを目指し、
東海道を西上します。
同月9日に四日市宿まで辿り着きますが、
宿泊中に薩摩藩によって捕縛。
金子と佐藤は伏見奉行所に引き渡され、
有村は薩摩藩によって匿われますが、
彼らの捕縛された旅籠は不明です。

■東海道の宿場町

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