和布刈神社は早鞆の瀬に鎮座する神社で、
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を祀ります。
※天照大神の荒魂という。
仲哀天皇9年(200)の創建とされ、
神功皇后が三韓征伐からの凱旋を祝い、
自ら早鞆の瀬戸の和布を刈り、
神前に捧げて神護を感謝しました。
潮の満ち引きを司る海峡の守護神として、
多くの人々から崇敬を集め、
足利尊氏、大内義弘、仁保常陸介等が、
社殿の修築造営を行っています。
現在の社殿は小倉藩4代小笠原忠総の再建。
「和布刈神社」。
旧暦元日に行われる和布刈神事で知られ、
湯立神楽が奉納された後に、
3人の神職が海に降りて鎌で和布を刈り、
神前に供えて航海安全や豊漁を祈願します。
※下関の住吉神社でも行われますが、
和布刈神社と違い非公開です。
「拝殿」。
拝殿は明治時代中期の再建とのことですが、
本殿は上記のように小倉藩主による再建。
すぐ目の前は海峡です。
拝殿左手の摂末社早鞆稲荷と恵比須社。
ここに和布刈砲台跡の碑があります。
「和布刈砲台跡」。
長州藩は海岸に砲台を設置し、
外国船への砲撃を行っていますが、
対岸の小倉藩にも使者を送り、
共に挟撃するよう要請しました。
具体的には田ノ浦と和布刈岬に、
砲台を築造するよう求めていますが、
小倉藩の動きは遅かったようで、
数十日後にやっと和布刈岬に砲台を築造し、
大砲を隠す覆い屋形を建てています。
この小倉藩の行動の真意を確かめるべく、
高杉晋作は奇兵隊士を和布刈に渡海させ、
対岸の状況を確かめさせました。
瀧弥太郎、赤禰武人らがこれを務め、
小倉藩の守備兵に砲台を見せてくれと迫り、
これを拒んだ兵と拒めている間に、
奇兵隊の1~2名がこっそり屋形を覗くと、
モルチール砲が一門あるだけだったという。
小倉藩は長州藩の要請を断り切れず、
形ばかりの砲台を築いていたようです。
これに怒った奇兵隊は小倉藩を問い詰め、
一緒に協力する気がないのならば、
こちらで田ノ浦に砲台を設置すると告げ、
奇兵隊が田ノ浦に駐屯する事となりますが、
和布刈砲台には以降も駐屯はされず、
そのまま捨て置かれたようです。
この跡碑についてですが、
その時の形ばかりの砲台跡を示すものか、
後の下関要塞の一部を示すものかは不明。
その形ばかりの砲台は日記等だけで、
地図や図面の無い砲台ですので、
ここが正確な位置かはわかりませんが、
長州藩に見せる為のものであれば、
和布刈神社の境内が理想的ではあります。
仮にここがそうであれば、
覆い屋形(たぶんテント的なもの)が、
建ってあっただけなのでしょうね。
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