壇ノ浦の対岸である門司の和布刈は、
下関側に突き出すような形状になっており、
関門海峡が最も狭くなっている場所です。
早鞆の瀬戸周辺(門司側が和布刈)
最も狭くなっている場所ですので、
橋やトンネルが建設されている訳ですが、
それ以前から交通や戦略の要所でした。
源平頃には門司城が築城されており、
本州側への睨みを利かせています。
戦国時代には大内家、大友家、毛利家が、
ここで何度も攻防を繰り返しており、
門司城を奪い合っています。
「門司関跡」。
本州側に関所(赤間関)があったのと同様に、
当然のように九州側にも関所がありました。
「ノーフォーク広場」。
ノーフォーク広場から関門橋を望む。
見慣れた橋も雰囲気が違います。
アメリカの姉妹都市ノーフォーク市が、
ノーフォーク広場の名称の由来。
「明石予次兵衛塔」。
山側に少し登るとある明石予次兵衛塔。
朝鮮出兵準備で名護屋城にいた豊臣秀吉は、
母の急病の知らせで大坂城に戻ります。
その道中に関門海峡を通行する際、
大里沖の浅瀬で船が座礁してしまい、
座礁の責任で船頭で切腹しました。
その船頭が明石与次兵衛で、
細川忠興配下の者であったという。
後に小倉藩に入封した細川忠興は、
与次兵衛を弔う石塔を建立して、
大里沖にある浅瀬の目印としました。
シーボルトもこれに興味を持ったらしく、
[江戸参府紀行]に石塔の事を記載し、
石塔のスケッチも残しています。
シーボルトが描いた与次兵衛塔のスケッチ。
方柱形になっているのは何故??
後から”うろ覚え”で描かれたのかな?
大正時代に入って浅瀬は取り除かれ、
塔は海中に破棄されていましたが、
昭和29年に海中より引き上げられ、
関門海峡を望むこの地に置かれました。
明石予次兵衛塔より道を車で登る。
「門司城跡」。
古城山と呼ばれる山の頂上にある跡碑。
門司城は一国一城令で廃城となりましたが、
明治に入って要塞が築かれました。
山頂付近には要塞施設の痕跡が。
このような遺跡は下関でも、
結構たくさん残っていますね。
一方通行の道を下りると、
途中に絶景スポットがありました。
「めかり第2展望台」。
関門橋が真近に見える絶景スポット。
[壇ノ浦合戦絵巻]の壁画もあります。
晴れてたらよかったのにね。
さらに下ります。
今回のお目当てはここ。
[唐人墓]という仏兵戦死者の慰霊碑で、
英仏蘭米の四ヶ国艦隊は、
下関を砲撃して砲台を次々と破壊。
上陸して陣屋などにも攻撃していますが、
これは一方的な戦いだった訳ではなく、
連合国側の多くの死傷者を出しました。
中でもフランスは戦死者を長州領より運び、
対岸の大久保海岸に埋葬しています。
後の明治28年に日本キリシタン史研究や、
殉教者顕彰を行ったヴィリヨン神父は、
後に彼らの石碑を建てています。
余談ですがこのヴィリヨン神父は、
日本に来ようと思ったきっかけは、
吉田松陰の密航未遂事件だったらしい。
彼が11歳の頃にフランスの新聞で、
松陰が密航を企てたことが報じられ、
その記事を読んだ彼の父親は、
米国人の融通の無さを怒っていたらしい。
「日本の勇敢な青年の嘆願を
はねのけた嘆かわしい事件」
事件はこのように報じられていたようで、
11歳の彼がそれを記憶しており、
日本に興味を抱くきっかけとなりました。
明治元年にヴィリヨン神父は来日し、
報じられた青年がどうなったのかを訪ね、
そこで初めて吉田松陰だったことを知り、
後の生き様を聞いて感銘を受けたという。
後に萩でも布教活動を行っており、
萩に30年間滞在しています。
「フランス水兵戦死者の慰霊碑(唐人墓)」。
送電鉄塔の脇にひっそり建っています。
「A LA MEMOIRE DES MARINS FRANCAIS
DE LA SEMIRAMIS ET DU DUPLFIX
MORTS AUX COMBATS
DE SHIMONOSEKI
LES 5 ET 6 SEPTEMBRE
1864
PRIEZ POUR EUX」。
1864年9月5、6日 下関の戦いにおける
セミラミオ号とデュプレックス号の戦死者
フランス水兵を記念して
彼らの為に冥福を祈る
・・と書かれているようです。
陸軍の要塞と化したこの地にあって、
何度かこの碑は場所が移されたようですが、
この碑が破壊されなかったのは、
日本人として誇りに思うところです。
■関連記事■
・萩市 萩キリシタン殉教者記念公園
ヴィリヨン神父が記念碑を建てています。
・下関市前田 前田台場跡
フランス軍が占領した長州藩の台場。
・下関市前田 角石陣屋跡
台場だけではなく陣屋も攻撃。