本行寺は池上本門寺子院の首席で、
池上三院家のひとつとされる日蓮宗の寺院。
この地を領していた池上宗仲の館で、
弘安5年(1282)に宗祖日蓮は病没しており、
入滅後間もなく宗仲は日朗の弟子日澄に、
※日朗は日蓮六老僧の一人。
館を寄進して本行寺が創建されました。
以来宗祖入滅の霊場となっており、
池上本門寺の子院の首席とされ、
特に格式の高い大坊と称されています。
「本行寺」。
本堂の他に日蓮の死去したご臨終の間、
御灰を安置した御灰骨堂等があり、
入滅の聖地たる所以を示しています。
また日蓮が荼毘に付された場所の宝塔も、
境内のすぐ隣にありますが、
そちらは池上本門寺の所有の模様。
この本行寺に三日月藩森家墓所があります。
「三日月藩森家墓所」。
本堂脇より墓地へ向かい、
真っすぐ石段を登って行くとあります。
「歸寂 長俊院殿歬對州刺史
快翁日好大居士」。
初代藩主森長俊の墓。
津山藩2代森長継の五男に生まれ、
父より1万5000石を分知されていますが、
宗家は5代森衆利が乱心したとして改易。
これに連座して三日月に移封されています。
※宗家は長継が西江原藩として再興し、
後に赤穂藩に転封しています。
乃井野村を藩庁と定めて陣屋を建設し、
城下町を構築して藩の基礎を構築。
18年の治世の後に隠居しました。
「歸寂 長運院殿藝州刺史豊山日榮大居士」。
2代藩主森長記の墓。
初代長俊の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
藩政は家臣に任せて狩猟を楽しみ、
明朝まで帰って来ない事が多く、
それ故下情に通じた藩主であったという。
24年の治世の後に家督を譲り隠居。
「歸真 俊晴院殿前佐州刺史
智道日覺大居士」。
3代藩主森俊春の墓。
2代長記の五男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
幕府より5万4000石の幕領を預かり、
35年の安定した藩経営を行った後、
家督を譲って隠居しています。
「歸寂 俊韶院殿河州刺史
勇道日義大居士(右)」、
「歸寂 快温院殿野州刺史
鷲峯宗雲大居士(左)」。
4代藩主森俊韶と5代藩主森快温の墓。
4代俊韶は3代俊春の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を継ぎました。
19年の治世の後に隠居。
5代快温は広島藩7代浅野重晟の三男で、
俊韶の娘曽代姫を娶って婿養子となり、
養父の隠居に伴い家督を相続します。
藩校広業館を創設して教育を推進しますが、
僅か8年の治世で死去しました。
「歸寂 長義院殿前豫州刺史
棲鶴日娯大居士」。
6代藩主森長義の墓。
新見藩5代関長誠の次男として生まれ、
5代快温の死去に伴い末期養子となり、
僅か8年で宗家より養嫡子を貰って隠居。
30年近く隠居生活を送りました。
「歸寂 長篤院殿對州刺史
鶴林日山大居士」。
7代藩主森長篤の墓。
宗家赤穂藩7代森忠賛の十一男に生まれ、
6代長義の養嫡子となって家督を相続。
7年の治世の後に死去しています。
「長國院殿前佐州刺史壽山日行大居士」。
8代藩主森長国の墓。
6代森長義の長男として生まれ、
7代長篤の末期養子となって家督を相続。
32年の安定した治世の後に隠居し、
9年後の安政4年に死去しました。
「従五位森俊滋之墓」。
9代藩主森俊滋の墓。
8代長国の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
領内三方里山に演武場を開き、
藩兵の訓練を行っています。
鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利すると、
上京して恭順の意を示し、
二条城の守備を命じられて藩兵を派遣。
廃藩置県後は東京に移住していましたが、
晩年は三日月に戻って余生を過ごしました。
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