東京都港区 青山霊園/後藤象二郎墓所

青山霊園にある後藤象二郎の墓。


宏徳院殿道譽哲心元瞱大居士」。
後藤象二郎の墓。
周辺は後藤家の墓所となっており、
後藤正晴、正晴の養父後藤正澄と、
更にその父後藤吉正の墓の他、
象二郎の娘ら家族の墓もありました。
後藤は土佐藩上士後藤正晴の嫡男で、
義叔父である吉田東洋に教育され、
安政5年に仕置役となった東洋により、
郡奉行普請奉行に任じられます。
文久2年の吉田東洋暗殺事件後は、
江戸に出て航海術蘭学等を学び、
山内容堂土佐勤王党を粛清すると、
大監察に任じられて武市瑞山らを断罪。
富国強兵策を推進して開成館を開設し、
長崎で土佐の特産品輸出を計画して、
亀山社中坂本龍馬と関わりました。
龍馬の公議政体論大政奉還論に賛同し、
これを容堂に献策して支持を得ると、
容堂と連署して大政奉還建白書を提出。
将軍徳川慶喜はこれを受けて大政を奉還し、
徳川幕府は終焉を迎えています。
新政府では参与外国事務掛総裁局顧問
御親征中軍監大阪府知事工部大輔
左院議長参議等を歴任しましたが、
明治6年の征韓論争に敗れて下野。
板垣退助江藤新平らと愛国公党を結成し、
民撰議院設立建白書に署名しています。
明治14年に自由党が結成されると、
板垣を総理におして副総理に就任。
明治15年に欧州を歴訪して翌年帰国し、
朝鮮の開化を援護しますが失敗しています。
明治20年に大同団結運動を主導しますが、
同22年に黒田清隆内閣逓信大臣に就任。
第1次山県内閣第1次松方内閣も留任し、
第2次伊藤内閣農商務大臣となります。
しかし明治27年の収賄事件で辞職。
心臓病を患って明治30年に死去しました。

墓所は青山霊園1種イ13号24側

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京都府京都市 高瀬川石標めぐり
 後藤の寓居跡もあります。
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