板垣退助は品川の高源院に葬られ、
その一族の墓も建てられていましたが、
高源院は明治26年に無住の寺となり、
関東大震災の被害で壊滅状態となった為、
明治14年に世田谷に移転しました。
その際に板垣家の墓所は残され、
境内飛地として品川神社の裏手に現存。
現在は接道の関係で品川神社境内を通り、
墓所に入る事が出来ます。
「双龍鳥居」。
品川神社の一の鳥居で、
両柱に龍の彫刻がされた珍しいもの。
双龍鳥居は東京に3つしかないようで、
東京三大鳥居のひとつとなっています。
※残り二つは馬橋稲荷と高円寺境内稲荷。
「拝殿」。
源頼朝が安房国の洲崎神社から、
海上安全と祈願成就の守護神として、
天比理乃咩命を勧請。
品川大明神と称したのが起源という。
徳川家康が関ヶ原の戦いへ赴く際、
この品川神社を参拝して戦勝祈願し、
後に祈願成就の御礼に天下一嘗の面や、
葵神輿等が奉納されています。
以後は徳川家の庇護を受けており、
徳川家光が東海寺を建立した際には、
その鎮守とされました。
現在は東京十社のひとつとして数えらえ、
祈願成就の神様として親しまれています。
本殿裏手を通って板垣家墓所へ。
「邦光院殿殿賢徳道圓大居士(右)」、
「慈徳院殿温良全貞大姉(左)」。
板垣退助と妻の板垣絹子の墓。
土佐藩上士乾正成の嫡男として生まれ、
義侠心があり喧嘩に明け暮れていましたが、
土佐勤王党に入って勤皇思想に目覚めます。
江戸に遊学して山鹿流兵学を学び、
軍事の専門家としての道を進み、
戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀に就任。
甲州進軍に際してゆかりの板垣姓に改称し、
甲州勝沼の戦いで勝利すると、
東北に転戦して数々の戦功を挙げました。
維新後は高知藩大参事に就任し、
廃藩置県後は参議として明治政府に出仕。
征韓論に敗れて6年に下野。
自由民権運動の先頭に立ち、
自由党を結成して総裁に就任しますが、
岐阜遊説中に刺客に襲われています。
この際に、
「板垣死すとも自由は死せず」
と叫んだ言葉は有名。
後に第2次伊藤内閣の内務大臣、
第1次大隈内閣の内務大臣を務め、
明治33年に政界を引退しており、
大正8年に死去しました。
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