東京都港区 青山霊園/中村藩相馬家墓所

青山霊園にある中村藩相馬家の墓所。


相馬家墓所」。
円形の累代墓所を中央に配した相馬家墓所。
相馬家は平将門後裔とされており、
将門含む累代当主が合祀されています。
将門は下総国豊田郡の豪族でしたが、
勢力争いで叔父の平国香を討つと、
常陸国下野邦上野国国府を攻略し、
自らを新皇と称しました。
後に藤原秀郷平貞盛藤原為憲らと戦い、
流れ矢に当たって討死しています。


霜釼大居士(左)」、
聖衆院殿(右)」。
中村藩2代(18代当主)相馬義胤の墓。
右の五輪塔が義種の墓ですが、
左の宝篋印塔聖衆院殿は不明です。
義種は初代相馬利胤の嫡男として生まれ、
父の死去により僅か7歳で家督を相続。
元服後は祖父と同じ義胤を名乗り、
中村藩の藩政の基礎を作っています。
寛永18年(1641)の桶町火事で、
手勢を率いて消火活動を行っていますが、
その際に落馬して負傷しました。
※この件で防火体制を見直す事となり、
 常備消防隊として大名火消しが創設。

慶安4年(1651)に死去。


従四位相馬充胤之墓(左)」、
従四位相馬充胤夫人綺子之墓(右)」。
中村藩12代(28代当主)相馬充胤の墓と、
その夫人綺子の墓。
充胤は11代(27代当主)相馬益胤の長男で、
父の隠居により家督を相続します。
慶応元年に30年の治世の後に隠居し、
長男相馬誠胤に家督を譲っていますが、
戊辰戦争で中村藩が敗れた為、
藩主と共に謹慎を命じられました。
明治20年、死去。


従四位子爵相馬誠胤之墓(右)」、
従四位子爵相馬誠胤夫人
 戸田氏之墓
(右)」。
中村藩13代(29代当主)相馬誠胤の墓と、
その夫人京子の墓。
誠胤は12代充胤の長男として生まれ、
慶応元年に父の隠居に伴い家督を相続。
奥羽越列藩同盟に加盟し、
磐城平に兵を派遣して新政府軍と戦い、
善戦してはいますが及ばず敗北し、
城を明け渡して降伏しています。
廃藩置県により免官されると東京に移住。
後に慶應義塾で学びました。
明治12年に精神に異常があると、
親族によって自宅に軟禁。
これに旧中村藩士錦織剛清は、
異母弟相馬順胤らが財産横領を謀り、
不当な監禁をしているとして、
明治16年に相馬家を告訴しています。
しかし訴訟の最中に誠胤は死去。
錦織はこれを毒殺であると訴え、
遺体解剖が行われていますが、
毒物は発見されず錦織は誣告罪に問われ、
重禁錮4年となりました。
家督は順胤が継いでいます。

墓所は青山霊園1種イ10号5側

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