東京都港区 青山霊園/乃木希典墓所

初の青山霊園でのラストは乃木希典の墓所。

乃木は死後に軍神となって祀られ、
赤坂に乃木神社が建立されており、
京都栃木北海道山口(下関)にも。
乃木神社近く坂は乃木坂と改称され、
青山霊園にも乃木将軍通りがあります。
電話口で「」の文字を知らせる際にも、
乃木将軍の乃」と言えば大概通じますし、
※最近は「乃木坂46の乃」の方が通じる?
現在でも「将軍」といえば、
徳川でも足利でもでもなく、
真っ先に乃木が出るのではないでしょうか。
それほど知られた乃木希典の墓。
どれ程大きなものかと思っていたら、
青山霊園内にある巨大な将官達の墓に比べ、
なんともこじんまりの墓でした。


陸軍大将乃木希典之墓(右)」、
乃木希典室静子之墓(左)」。
自然石で建立された乃木夫妻の墓。
大正元年9月13日。
明治天皇大喪の礼が終わった午後8時頃、
乃木は妻静子と共に自害しています。
乃木は長府藩士乃木希次の三男に生まれ、
小倉戦争長府報国隊隊士として初陣。
戊辰戦争では負傷中で参戦してはおらず、
明治4年に陸軍少佐に任官しました。
西南戦争では歩兵第十四連隊を率い、
西郷軍と戦っていますが、
連隊旗を奪われる失態をおかしています。
戦後は歩兵第一連隊長に抜擢されますが、
当時は放蕩を繰り返していたようで、
静子との祝言にも遅刻する程だったという、
それでも昇進を続けて少将となり、
歩兵第11旅団長に任じられ、
明治20年に川上操六と共にドイツに留学。
ドイツ式の軍制を学んで帰国すると、
綱紀粛正軍服着用の重要性を唱え、
自ら範を示す振舞いに努めました。
日清戦争では歩兵第1旅団長として出征し、
旅順要塞を1日で陥落させており、
戦後に中将となり第2師団師団長に就任。
乙未戦争台湾に出征してこれを平定し、
3代台湾総督に就任しています。
台湾総督辞任後は休職して隠遁し、
農耕生活を送っていましたが、
日露戦争開戦直前に動員令が下り、
第3軍司令官として旅順攻囲戦を指揮。
続く奉天会戦でも奮戦しており、
ロシア軍を退却させています。
凱旋後は勅命により学習院院長に就任。
昭和天皇も教育していますが、
上記のように明治天皇が崩御すると、
妻と共に殉死を遂げました。


陸軍歩兵少尉正五位勲六等
 功五級乃木保典墓
(右)」、
陸軍歩兵少尉正五位勲六等
 功五級乃木勝典墓
(右2)」、
乃木壽子之墓(右3)」、
乃木十郎希次之墓(右4)」。
乃木の次男乃木保典と長男乃木勝典及び、
乃木の両親の墓。
長男勝典は南山の戦いに参加しますが、
乃木の出征前に戦死しており、
次男保典も旅順攻囲戦で戦死しています。
これによって継嗣はいなくなっており、
乃木の殉死後に乃木家は断絶しました。
父希次は藩主の娘銀姫の守役を務め、
※銀姫は後に毛利元徳の正室となります。
藩主世子の諸礼法師範も務めています。

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