丸山花街は寛永19年(1642)に、
長崎市中の遊女屋が集められて始まり、
昭和31年に売春防止法が公布されるまで、
遊郭街として栄えた場所。
「長崎丸山華街之跡」。
丸山花街があった事を示す標柱と説明板。
ここは花街の東端に位置する場所で、
背後の石垣は遊郭街を囲むものの名残。
「山崎屋の坂(森崎坂)」。
標柱と説明板の隣にある石段。
元々は森崎権現社の参道の坂でしたが、
森崎権現社はキリシタンによって破壊され、
江戸中期以降に坂上に揚屋山崎屋が建ち、
山崎屋の坂と呼ばれるようになっています。
階段の石は当時のままの安山岩。
山崎屋の坂の前の緩やかに下る道。
かつては妓楼が軒を連ねていた場所には、
現在はマンション等が立ち並んでおり、
その面影は少なくなっていますが、
通り沿いの長崎検番は健在。
脇道には遊郭だった建物も散在します。
丸山は江戸の吉原、京都の島原と共に、
日本三大遊郭のひとつとされ、
大変な賑わいであったようで、
当時唯一外国人の相手が許されており、
丸山遊女のみが唐人屋敷や出島に、
出入りしていたという。
「花月」。
丸山随一といわれた遊女屋引田屋の跡。
花月は引田屋の庭園内の茶屋の名で、
明治12年に花月は焼失し、
引田屋も大正末年に廃業していますが、
現在は史跡料亭として営業し、
花月の名が継承されています。
「坂本龍馬之像」。
花月前の丸山公園の坂本龍馬像。
平成21年に建立されたもので、
公文菊僊の掛軸をモデルに、
※龍馬像を数多く書いた日本画家。
大小と懐中時計、ピストルを所持し、
丸山を闊歩する姿をイメージとのこと。
長崎を拠点としていた龍馬は、
丸山にも足を運んだのでしょうけれど、
仮に自分の像が建てられたとして、
それが風俗街跡だったらと考えると・・。
※現在の丸山は風俗街ではありません。
まあこれは俗人の感覚ですし、
龍馬本人なら笑い飛ばしているかも?
「思切り橋欄干」。
丸山の入口である山の口には、
他の遊郭街と同じように門が設置され、
二重門と呼ばれていたという。
その山の口の右と左の別れ辻には、
思切り橋という小橋がありました。
丸山に行こうか行くまいか思案し、
思い切って花街に身を投じる男どもが、
その橋を渡った事から名付けられ、
現在はその欄干が保存されています。
また橋の袂には一本の柳が立っていて、
吉原と同じく見返り柳と呼ばれたという。
現在は山の口周辺が歓楽街となっており、
思案橋通りや船大工通りが賑やかな模様。
こういう場所は昼と夜では別世界なので、
夜に行ってみないとわかりませんが。
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