京都府京都市 島原花街跡

島原花街は江戸初期の公娼地六条三筋町が、
寛永18年(1641)に朱雀野に移転させられ、
その移転騒動が島原の乱のようであった為、
島原と呼ばれるようになったという。
揚屋茶屋芸妓を抱える置屋に分かれ、
娼妓を抱える遊郭の形式とは違う為か、
島原では遊郭と呼ばれる事を嫌い、
花街と呼ばれる事を好むようです。


島原大門」。
島原の東入口にある高麗門形式の大門
周囲を塀と堀で囲まれた島原で、
西門が出来るまで唯一の出入口でした。
現在の門は慶応3年に建てられたもので、
京都市登録有形文化財となっています。


輪違屋」。
現在も営業を続ける置屋兼お茶屋。
元禄元年に置屋養花楼として創業し、
明治5年よりお茶屋を兼業しています。
建物は安政4年に再建されたもの。


角屋」。
島原開設当初から続く揚屋。
京都の志士や新選組もここで宴会し、
密儀を行い事件を起こしたりしています。


現在は一般公開しているようで、
角屋もてなしの文化美術館と称していますが
訪問時は夕方で既に閉館していました。


長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」碑。
角屋の北東角に建てられた碑で、
久坂玄瑞が密議を重ねた角屋として、
これを示すものとのこと。


新撰組刀傷の角屋」碑。
久坂の碑の反対側の南東角にある碑で、
芹沢鴨が角屋で暴挙を働き、
その際に出来た刀傷がある事を示します。
新選組と水口藩公用方との宴会の席で、
芹沢が店の対応に腹を立てて大暴れし、
7日間の営業停止を申し渡したとされます。
その芹沢は3ヶ月後に角屋での宴会の後、
屯所で飲み直して泥酔し、
近藤派に襲われて殺害されています。

現在は上記の大門、輪違屋、角屋のみが、
当時の遺構として残ってはいますが、
それ以外は住宅や店舗となっており、
往時の雰囲気は失われています。

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