長家は能登国穴水の国人で、
室町時代より能登畠山家の家臣となり、
19代長続連は畠山七人衆の一人として、
能登畠山家中随一の勢力を誇りました。
しかし上杉謙信の能登侵攻が始まると、
七尾城に籠城して一度は撃退しますが、
二度目には親上杉派の遊佐続光らが内応。
長一族は続連以下悉くが城内で殺されます。
続連の次男長連龍(当時は孝恩寺宗顒)は、
密かに織田信長に援軍要請に行った為、
長家唯一の生き残りとなり、
織田勢と共に救援に向かいますが、
既に一族の首は晒されていたという。
織田家に仕えて復讐を誓った連龍は、
能登や越中を織田家家臣として転戦。
謙信の没後に織田勢が能登に侵攻すると、
遊佐は織田家に降伏しますが、
信長はこれを許さず斬首しています。
また長家家譜では遊佐を連龍が発見し、
一族を皆殺しにしたともいう。
その後に能登が前田利家に与えられると、
与力としてこれを補佐する事となり、
そのまま前田家の家臣となって利家を支え、
数々の戦に参加して功を挙げ、
家老となって3万3000石を与えられます。
長家は後に加賀八家となっており、
連龍はその初代とされました。
連龍は嫡男長好連に家督を譲りますが、
好連が早世すると再び復帰し、
所領の田鶴浜で死去しています。
遺骸は跡を継いだ次男長連頼によって、
田鶴浜の東嶺寺に葬られました。
「山門」。
東嶺寺は曹洞宗寺院で室町時代後期の創建。
当初は実相院と称していましたが、
後に花渓寺と改めて長家の菩提寺となり、
天正8年(1580)に現在地に移転しました。
山門は創建当時のものとされ、
その門は柵で閉ざされていますが、
これは修行道場であった為という。
入れないのかと覗いていると、
住職さんが来られて入れて頂きました。
「本堂」。
入母屋桟瓦葺の立派な本堂で、
本尊は釈迦如来像。
東嶺寺の再建の際に尾張の指物師を召喚し、
戸障子や欄間の製作をさせたとされ、
優れた技術を見た村人らが弟子入りし、
これが特産田鶴浜建具の始まりとなります。
長家の墓所は西側の丘の上。
「長家墓所」。
巨大な3基の墓と五輪塔が並ぶ墓所。
五輪塔には大姉の文字が刻まれており、
奥方や姫らの墓と思われます。
「捐館 東嶺良顗菴主 神儀」。
長家21代(加賀八家長家初代)長連龍の墓。
連龍の遺骸は次男連頼によって葬られ、
連龍の33回忌に堂宇を再建し、
寺名も法名から東嶺寺に改称しました。
※この際に指物師が召喚されました。
墓石は大大名に劣らない大きさです。
「薦乾徳院殿鐵山良剛老居士塔」。
長家23代(加賀八家長家3代)長連頼の墓。
長連龍の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
当主在任中に家臣らの対立が発生し、
これが藩の介入を受ける事となり、
能登における長家の特権が失われました。
「潽雲院殿凮山良薫居士 尊儀」。
連頼の嫡男長元連の墓。
藩の介入によって当事者が切腹となり、
家中取締不行届として元連も連座し、
廃嫡されて剃髪、蟄居となりました。
家督は元連の子尚連が継ぐ事となり、
能登の所領を取り上げられて、
3万3000石の給米支給にされています。
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