加賀藩家臣の最高位の人持組頭8家は、
いずれも万石以上の禄高を有しており、
他藩でいう永代家老家にあたります。
この8家は加賀八家と呼ばれており、
本多家、長家、横山家、前田土佐守家、
前田対馬守家、奥村宗家、奥村内膳家、
村井家と定められていました。
上記の8家のうち、
前田対馬守家以外の7家は、
野田山にあります。
※本多家は野田山墓地隣接の大乘寺墓地。
長家墓所へ。
野田山墓地地図。
上側の空白の部分が前田家墓所。
長家の墓所は赤枠の位置です。
「長家之墓所」。
長家は能登国主畠山家の家臣でしたが、
畠山家は長家を含む重臣らが実権を握り、
内部で勢力争いを繰り返していました。
上杉謙信が能登侵攻を開始すると、
七尾城に立て籠もって上杉家に抵抗。
長家当主長続連は織田信長へ援軍を要請し、
息子の長連龍を安土城に送ります。
しかし重臣筆頭の遊佐続光は上杉家に内応。
長一族を皆殺しにしてしまいました。
一人残された連龍は信長の家臣となり、
後に七尾城が落城して続光が殺害されると、
能登の一部を与えられています。
以後は前田利家の家臣となって、
主要な合戦に参加して軍功を挙げ続け。
利家や次代前田利長から信頼を受けて、
長家は家臣最高位の加賀八家となります。
「長家墓所内」。
5、9~12代の加賀八家長家当主及び、
当主生母、子女の墓が並んでおり、
墓は全て台形の墳丘墓形式となっています。
長家は能登国内に3万3000石を領しており、
これは信長より与えられた領地であった為、
他の重臣が金沢城下を本拠としたのに対し、
長家は金沢城下の他に領地にも本拠を持ち、
主家も手を出せない状態であったという。
しかし3代当主長連頼の時代に、
家臣同士の争いの末に大きな騒動となり、
多数の処刑者を出す事となって、
連頼は家中取締不行届により蟄居。
長家は能登の所領を取り上げられ、
3万3000石は散在する采地とされた為、
能登の本拠を失って金沢城下に屋敷を移し、
他の家臣らと同等となります。
その為に長家墓所は4代まで領内の東嶺寺。
5代が野田山墓地に葬られ、
6~8代が開禅寺となってから、
9代以降が再び野田山墓地に葬られました。
「長尚連君室前田恭子墓」。
4代当主長尚連の正室圓浄院の墓。
長家の墓所内で一番大きな墓です。
これは圓浄院が前田家の娘であった為で、
位置的にも前田家墓所に一番近い。
「従五位下長高連君墓」。
加賀八家長家5代(長家25代)長高連の墓。
4代尚連に継嗣がなかった為、
支家の人持組千石より養嫡子に入り、
養父の死去に伴い家督を相続します。
それまでの当主は東嶺寺に葬られますが、
この高連は義母の傍らに葬られました。
幕末の当主は9代長連弘と10代長連恭。
残念ながら写真を撮り忘れてしまいました。
9代連弘は本多家8代本多政礼の二男で、
8代長連愛の養子となって家督を相続。
黒羽織党を結成して改革を推進しますが、
保守的な藩主前田斉泰により失脚し、
安政4年に病没しています。
10代連恭は9代連弘の嫡男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
継嗣前田慶寧が京都警護の任を放棄し、
金沢に帰る途中の海津でこれを止め、
引き返すように説得していますが、
最終的に慶寧は金沢で謹慎となり、
代わりに連恭が京都で警護を担当。
続く長州征伐では広島まで出陣しており、
解兵後は金沢に戻っていますが、
慶応3年に再び京都警護を行っています。
明治元年、27歳で病死。
11代長成連は連恭の弟で、
兄の末期養子となって家督を相続。
兄に引き続いて京都警護の任を担当し、
明治2年には金沢藩少参事に就任しており、
自家の屋敷を藩に提供して藩庁としました。
明治12年、死去。
幕末の長家当主は改革や軍事で藩に貢献。
流石は次席といったところでしょう。
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