石川県金沢市 野田山墓地/奥村内膳家墓所

加賀藩家臣の最高位の人持組頭8家は、
いずれも万石以上の禄高を有しており、
他藩でいう永代家老家にあたります。
この8家は加賀八家と呼ばれており、
本多家長家横山家前田土佐守家
前田対馬守家奥村宗家奥村内膳家
村井家と定められていました。

上記の8家のうち、
前田対馬守家以外の7家は、
野田山にあります。
※本多家は野田山墓地隣接の大乘寺墓地

奥村内膳家墓所へ。

野田山墓地地図。
上側の空白の部分が前田家墓所
奥村内膳家の墓所は赤枠の位置です。


奥村内膳家墓所」。
墓地は奥村宗家より藩主家墓所に近い。
元々宗家初代奥村永富の墓所でしたが、
次代奥村栄明前田利家の傍に葬られた為、
弟で内膳家初代奥村易英が父の傍に葬られ、
そのまま内膳家の墓所になりました。
後に宗家墓所は4代奥村栄清以降に定まり、
結果的に内膳家より低い位置となり、
宗家、支家の位置関係が逆となります。


奥村快心居士之碑」。
墓所中央にある亀趺碑。
宗家初代奥村永福を顕彰したもの。
快心は永福の号です。


故朝散大夫豫州刺史奥村君
 配 加藤孫人 墓
」。
奥村宗家初代当主奥村永福とその室の墓。
前田利春や兄前田利久の代から仕え、
織田信長の命により利家に家督が譲られ、
荒子城が利家のものとなりますが、
荒子城代を務めていた永福は、
利久の命が無い限り明け渡さないと籠城。
改めて利久が明け渡しを命じると、
荒子城を明け渡して浪人となります。
後に前田家に帰参し各地の戦場で功を挙げ、
要衝の末森城を与えられました。
この末森城は佐々成政に攻められますが、
寡兵で利家の援軍到着まで耐え凌ぎ、
成政軍の撃退に成功。
その後は加賀藩の基礎作りに貢献し、
初代藩主となった前田利長
2代藩主の前田利常にも重用され、
84歳で死去しました。
漫画花の慶次では奥村助衛門として知られ、
慶次とは莫逆の友として語られています。


故奥村因幡君
 配 横山氏 墓
」。
奥村内膳家初代当主奥村易英の墓。
宗家初代永福の次男として生まれ、
末森城の防衛戦では父や兄と共に戦い、
小田原征伐大聖寺城攻めで活躍。
大坂の陣でも軍功を挙げており、
加増を重ねて家老に就任しています。
父が死去した際には3千3百石を分与され、
合計1万4千4百石を領しました。
寛永20年(1631)、81歳で死去。
奥村内膳家は1万2千石に定着しています。

幕末の当主は13代奥村直温及び、
14代奥村篤輝

故奥村内膳君
 配 横山氏 墓
」。
13代当主奥村直温とその室の墓。
12代奥村敦叙の嫡男として生まれ、
父敦叙の死去に伴い家督を継ぎます。
保守的な藩主前田斉泰の政策に対し、
本多政均長連恭らと対抗していますが、
元治元年に34歳で病死しました。


故奥村左京君 墓」。
14代当主奥村篤輝の墓。
13代直温の嫡男として生まれ、
父直温の死去に伴い12歳で家督を相続。
年若く病弱であったようで、
動乱期の藩政には参与できず、
明治2年に病死しています。

奥村内膳家の当主は早逝が多く、
4代奥村明敬が26歳、
6代奥村保命が20歳、
7代奥村易直が16歳、
8代奥村煕殷が17歳、
そして上記の14代篤輝が18歳と、
若くして死去するケースが多く、
※6代保命は家臣に殺害されています。
それ故か墳墓も小ぶりなものが多い。
これら当主の墓は単独のもので、
長生きは正室との合葬となっています。

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