油屋町に大浦慶の居宅跡の碑があります。
「大浦けい居宅跡」。
老舗の油屋大浦屋の跡地。
慶は当主大浦太平次の娘に生まれますが、
油商は不振で屋台が傾いていました。
慶は新しく茶の輸出を思いつき、
蘭通詞品川藤十郎の協力を得て、
蘭人テキストルに嬉野茶の見本を託し、
英国、米国、アラビアの3国に送ると、
3年後に英商人ウィリアム・オルトが、
見本を見て1万斤の大量の茶を発注。
これには嬉野茶だけでは対応できず、
九州各地より茶葉をかき集め、
なんとか米国に輸出したという。
これが日本初の本格的製茶輸出貿易で、
後に英国やアラビアにも輸出され、
慶は巨万の富を得る事となります。
一時米国の南北戦争で輸出は停滞しますが、
戦争終結と共に需要が急激に回復し、
慶応2年に輸出はピークに到達しました。
その後に静岡産茶葉が台頭すると、
茶の輸出以外の商売を模索。
そんな折に熊本藩士遠山一也より、
英国オールト商会との熊本産煙草の取引で、
契約の為の保証人になってほしいと頼まれ、
これを引き受けます。
この取引は熊本藩によるものと偽られ、
連署人の証書も偽造されていたようで、
遠山は契約成立後にオールド商会から、
手付金3千両を受け取ると姿を晦まし、
慶はオールト商会から訴えられました。
慶も遠山や連署人を訴えますが、
連判した事を咎められて負債を背負い、
家財が差し押さえられたという。
しかしそれでも商売を建て直したようで、
海軍の軍艦払い下げの際、
筑前商人と共同で購入するまでに回復。
明治17年に死去するまで、
バイタリディ溢れる女性だったようです。
坂本龍馬ら志士とも親交があったようで、
亀山社中の資金繰りに窮した際、
龍馬が慶に借金を申し込んだとされ、
その担保に隊士陸奥陽之助を預けのだとか。
陸奥は慶の背中を流していたようで、
晩年に慶はその事語っていたという。
同じ通り沿いに孫文の故縁之地もあります。
「孫文先生子故縁之地」。
幕末維新でも江戸時代でもありませんが、
余りにも近い位置なので紹介します。
孫文は中国革命の父とされ、
清国を打倒して中華民国を建国した人物。
彼は長崎に9度訪れていたようで、
この地にあった東洋日の出新聞社に、
決まって訪れていたようです。
同新聞は二本松出身の鈴木天眼が創刊し、
西郷四郎が発行名義人となっていたもので、
東亜問題を論じる異色の新聞でした。
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