下関市吉田 東行庵/高杉家の墓

高杉晋作福田侠平の墓の間には、
10m程度の空間があり、
充分に奥方の墓が建てられますが、
晋作の妻雅子達の累代の墓は、
晋作の墓から離れて建っています。


高杉家累代之墓」。
晋作の妻雅子、息子の東一、東一妻茂子
東一長女暢子、次女治子、次男晋二郎の墓。
福田侠平の顕彰碑の後ろ側より、
少し坂を登った場所に建っています。
このエリアには他に髙杉家祖先歴代墓
2代庵主谷梅仙、3代谷玉仙の墓もあり、
敢えてか目立たない位置となっています。
雅子は大正11年に亡くなりましたが、
高杉晋作程の英雄の妻であれば、
個人の墓を晋作の隣に建てても良い筈。
事情の程はわかりませんが、
雅子は夫の隣ではなく、
息子や孫と一緒の墓に入りました。
これが本人の希望なのかは不明ですが、
その控えめさは非常に好感が持てます。

雅子は大組士井上平右衛門(250石)の次女で、
城下一の美人と噂されていました。
晋作の父高杉小忠太はこの噂を聞き、
息子の嫁にと縁談を申し出ます。
城下一の美人なだけに縁談話も多く、
クジで高杉家への縁談を決めたという。
雅子は万延元年に16歳で晋作に嫁ぎますが、
晋作は尊攘運動で家を空ける事が多く、
新婚生活らしきものは文久3年3月に、
頭を丸めて隠棲した2ヶ月程度。
とはいえその間に子供を宿したようで、
元治元年に梅之進(東一)を産んでいます。
殆ど家に寄り付く事の無かった晋作ですが、
雅子への手紙は欠かしませんでしたし、
常に晋作は優しかったという。
下関でうのにしていた晋作ですが、
雅子を大切にしていたようで、
うのを隠して自分は雲隠れしており、
周囲を巻き込んで迷惑をかけています。
労咳によって晋作が倒れた際には、
雅子はうのに代わって看病を続け、
晋作の死後は高杉家と共に山口に移り住み、
廃藩後の明治10年に東京に移住。
梅之進は晋作の興した谷姓でしたが、
明治20年に高杉姓に改称し、
高杉東一を名乗っています。
※高杉家は晋作の妹婿が継いでおり、
 あくまで谷家からの改姓。

東一は外交官陸軍会計主任等を務め、
雅子に先立ち大正2年に死去。
東京の瑞聖寺に葬られて墓が建てられますが、
大正11年の雅子の死去を機に、
晋作の眠るこの東行庵に改葬されました。
裏の被葬者没年は、治子、晋二郎、東一、
暢子、雅子、茂子の順となっており、
暢子までが瑞聖寺に葬られたようです。
ちなみに瑞聖寺には晋作の父母の墓や、
妹婿の家系の墓があるようですが、
一般には非公開となっています。

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