高杉晋作の墓の隣は妻雅子の墓ではなく、
奇兵隊軍監福田侠平の墓となっています。
これは福田の遺言に沿ったものですが、
隣とはいえ10m程離されました。
後に隣に奥方の墓が建てられるように、
わざわざ開けられたと推測しますが、
雅子らの累代墓は少し離れて建てられた為、
微妙に離れた晋作と福田の墓だけが、
広いスペースに並んでいます。
「福田公明墓」。
福田は長州藩士十川権右衛門の次男で、
後に同藩士福田貞八の養子となりました。
若い頃の事はよくわかっていませんが、
文久3年に奇兵隊が結成されるとこれに入隊。
状況的には正規軍として攘夷戦に従軍し、
その不甲斐なさから入隊したのでしょう。
20代の若者が多かった奇兵隊内で、
30代の福田は思慮深く落ち着きがあり、
隊士らから慕われていたようで、
晋作も福田を信頼していたという。
10歳も年下の晋作に心酔していましたが
功山寺挙兵ではこれを暴挙であると、
奇兵隊の一員として反対しており、
本人も馬前を遮って止めようとしました。
しかし後に山縣狂介と共に内訌戦に参加し、
大田絵堂の戦いで活躍。
慶応元年に軍監となっており、
小倉戦争でも晋作と共に戦いました。
その後の戊辰戦争にも従軍して凱旋。
しかし祝杯で大酒していたところ卒倒し、
その2日後に急逝しています。
普段から酒を欠かさない酒豪であり、
戦闘中も酒を常に携えていたようで、
平然と酒を呑みながら指揮する姿に、
兵士らは安心感を得ていたようですが、
これが仇となってしまったようです。
「贈正四位福田君碑」。
同僚であった山縣有朋撰による顕彰碑。
隣にある贈正四位高杉君碑が有名過ぎて、
これについてはほぼ語られません。
この碑は晋作の碑と同時に計画され、
伊藤博文が晋作の碑の撰文を担当。
福田の碑は山縣が担当する事となり、
山縣は計画通り撰文を書き上げて、
この碑を完成させています。
除幕式は単独で行われたようですが、
これについての詳細は不明。
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