下関市吉田 東行庵/奇兵隊顕彰墓地

久しぶりの東行庵
梅の花も開いて香っていました。
毎度晋作の墓にはお参りしていますが、
今回はそれ以外の墓について触れてみます。


司馬遼太郎文学碑」。
何を思ってかゆきちゃんが腰掛けたので、
司馬遼太郎文学碑と共に一枚。
紀行文[街道を行く]の一節とのこと。
街道を行くは一度読もうとしましたが、
第1巻の長州路で挫折しています。
 長州は奇兵隊の国である。
この一節に覚えはないのですけれど、
それは言い過ぎでは?な感じ。
 奇兵隊は長州の隊である。
これならわかるんですけど。
僕ごときが文豪の一節に文句いうのは、
とてもおこがましいですし、
もっと深い意味があるのかもしれません。
確かに奇兵隊及び諸隊は、
長州という御国柄故に結成出来た訳で、
これが当時の幕藩体制において、
他の土地でこれが出来うるかといえば、
決して出来はしなかったでしょう。
例えば〇〇勤皇党等の結社的なものや、
〇〇隊等の軍部隊は存在していました。
しかしながらその中間的な奇兵隊は、
長州藩故に存在が可能であったもので、
その独自性が際立っています。
たぶんそういう意味の一節なのでしょう。


奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地」。
諸隊戦死者の多くは10~20代で、
無縁仏となって荒れ果てたケースが多く、
これを嘆いた東行庵三世谷玉仙が、
各地から隊士の墓碑を集めて供養したもの。
東行庵は功山寺の末寺で曹洞宗ですが、
その精神は招魂場の趣旨と同様。


各地から集められた墓碑は、
神道墓位牌型自然石等、
宗教、宗派を問わず並んでいます。
これらの墓碑については別記事にて、
少しずつ紹介していこうかと思います。

■関連記事■
久しぶりに東行庵へ行ってみた
 2020年訪問。
東行忌 高杉晋作没後150年記念
 2016年の東行忌。
高杉晋作顕彰碑物語①/晋作を顕彰する
 晋作の顕彰碑に関する物語。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です