東京都文京区 吉祥寺/松前藩松前家墓所

吉祥寺にある松前藩松前家の墓所。
松前家の始祖は武田信広とされており、
その出自には諸説ありますが、
上国守護蠣崎季繁の客分として身を寄せ、
アイヌとの戦いで活躍した事から、
気に入られて婿養子となり、
蠣崎家の家督を相続したとされています。
後に5代蠣崎慶広豊臣秀吉に臣従し、
蝦夷地一円を安堵されており、
秀吉の死後は徳川家康に従ったようで、
アイヌ交易の独占権を公認。
またこの時期に松前姓に改めており、
無高ながら大名として扱われました。
※当時の北海道では米が穫れなかった為、
 禄高的には無高でした。
 この為に始めは蝦夷島主として扱われ、
 後に大名格の交代寄合となり、
 正式に大名となったのは徳川綱吉の世で、
 5代松前矩広の代から。



松前藩松前家墓所」。
方柱型の墓石が並ぶ松前家の墓所。
正面の3基が藩主の墓で、
両脇には奥方や子女の墓が並びます。

この3基は江戸で死去した藩主。

福山館主従従五位下
 松前〇〇〇源氏廣之墓
(右)」、
福山館主従従五位下松前美作守
 源道廣之墓
(中央)」、
福山館主松前源良廣之墓(左)」。
3代松前氏廣の墓、8代松前道廣の墓、
10代松前良廣の墓。
3代氏廣は2代松前公広の次男で、
父の死去に伴い家督を相続しています。
治世ではアイヌの反乱が起こっており、
一族の蠣崎利広らがこれを鎮圧。
7年の治世の後に死去しました。
8代道廣は7代松前資広の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
その土地柄故か海防に積極的だったようで、
攘夷派の諸候と交友した他に、
高山彦九郎にも会っていたという。
アイヌの反乱や外国船来航に強硬的で、
討伐には自ら率先して出陣。
また吉原の遊女を妾にする等、
遊興にも積極的だったようで、
挙句に幕府から謹慎処分を受けています。
10代良廣は9代松前章廣の孫で、
父で章廣の長男松前見廣が早逝した為、
嫡孫となって家督を相続しました。
病弱の為に藩政を担う事も出来ず、
官位も与えられる事はなく、
藩主就任の6年後に死去しています。

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